一平安京を歩く一
神泉苑 朱雀門跡 大極殿跡
一平安京を歩く一
神泉苑 朱雀門跡 大極殿跡
京都市の地図を広げると、二条城の南側に「神泉苑」と書き込まれた場所がある。その昔、桓武天皇が奈良から長岡京を経て、都を京都に移した794年頃には、この辺りには広大な森があり、大小の泉、池や沼、また小川が流れる場所であったと伝えられている。平安京の大内裏の南に位置するその森林地帯は天皇や貴族のための森で、一般庶民は立ち入れない場所、つまり禁苑とされていた。清らかで大きな泉があったところは特に神聖な地であったらしく、後に神泉苑と呼ばれることになる。
四神相応、風水の考え方からみると、ちょうどこの位置は、龍の水呑み場に当たるとか。幻の巨大龍がここで水を補給して、力を蓄えたというわけであろうか。そこはいったいどんな所なのだろう。今回訪ねてみることにした。
神泉苑
御池通に面した、南側にある石の鳥居をくぐって神泉苑に入る。構えは見たところ神社のようである。石橋を渡るとすぐ正面に、竜王を祭る社殿があり、右手には恵方社があった。この小さな祠は台に乗っていて、手で抱えられそうな感じである。毎年その年の恵方を向くように回転させると説明板にある。
緑色の池と朱色の橋が目に入った。池の周囲には楓、桜などが植えてあって、ちょうど季節は四月、きれいな眺めである。道路からいきなり日本庭園に入ったような気がするが、どうも規模が思ったよりも小さい。神泉苑という名からもっと広い庭園を想像していたが、意外にも敷地は狭いのである。池の周りに樹木も建物もぎゅっと凝縮されて詰め込まれたような感じがする。まずはその由緒をみてみよう。
この池はまだ京都盆地が湖底にあったという、気の遠くなるような太古の時代から存在し続けている、大変由緒のある池なのだそうだ。長い年月をかけて、少しずつ湖は干上がっていったと思われるが、その最後に残った窪み、その池がここなのだという。
ついでにいうと奈良盆地でも同様に、磐余(いわれ)の池といわれる特別な池があるのを思い出した。どちらもかつて湖底であった地であり、そこが太古から続く最後の水をたたえているとされ、それ故に神聖視されたのだろう。
御池通の名称もこの池に由来するのだという。けれども徳川家康が神泉苑の北側に二条城を築城した際に、神泉苑は大半の敷地を削り取られてしまい、今のように狭くなってしまったのだそうだ。
元の神泉苑は南北四町、東西二町あったという。平安京があった時代には、このあたり一帯には美しい樹木の森林が広がっていて、鹿や兎、鳥などが多く棲み、狩猟にも適していたことだろうと思われる。
桓武天皇は度々ここに行幸し、花見の宴、観月、狩猟とさまざまに四季の自然を楽しんでいたようである。政務から解放されて、清らかな泉の水に触れ、緑豊かな森を歩いて、心身の気分も一新ということであったろうか。桓武天皇の後、嵯峨天皇もここで何度も詩歌や管絃の宴を開いたと記録にあるそうだが、最盛期はその頃までで、その後は幼帝ということもあって、徐々に天皇の行幸回数は減り、すたれていったという。
池の中ほどには社殿があって善女竜王が祭ってある。日照りのとき、空海がここで祈雨の祈祷を行った際に雨が降り、このことによって西寺の僧を打ち負かしたという言い伝えが残っているそうだ。絶えず地下から水が湧き出ていて、涸れることのなかったこの古代の泉は、霊泉と考えられたのだろう。雨を呼ぶ龍神信仰と相まって、祈雨の聖地とされた。
さらに後の時代になると、後白河法皇が百人の白拍子を集めて雨乞いをしたときに、(義経もその場にいた?)最後に舞ったのが静御前で、彼女のときに雨が降ったという逸話もあるそうだ。
その地にまつわる不思議な話が生まれ、霊験談が人々の間で語り継がれていくのは、その土地に強いパワーがあり、その地が目に見えない力を持っていることの証でもあるのだろう。
目の前に、義経と静御前の出会い処、と白地に大きく書かれたのぼりが翻っている。ひらひらと目の前にあって邪魔な感じもするので、なるべく見ないようにして、池の周りを散策してみたいと思うが、いざ巡ろうとすると、残念なことにたちまちフェンスに遮られてしまった。転落防止のためであろうか。立ち入り禁止になっていて、一周できないのである。ここを訪れる人は、池をゆっくり眺めつつ回ってみたいと皆思うものだろうに。
みると境内の西側は料亭になっていた。神泉苑は今や料亭の池かと見まがうような感じで、境内の敷地は、道路と料亭とすぐ際まで迫っている民家によって、ぎりぎりまで両側から押されているのだった。
しばらく朱の橋の上に立って緑色の池を眺めていた。池水は僅かではあるが、今も地下から湧き出ているらしい。そこに平安の情景を想像してみる。
・・・・豊かな緑の木立と、鳥の囀り、木々の間を流れていく風。広大な森のそこかしこに小さな池沼が点在し、ここ神泉の池は青い空と雲を映して澄んだ水をたたえている。舟遊びする貴族たちの姿が見え隠れし、背後には小山があり、緩やかな丘が続き、緑の樹木がどこまでも広がっていく・・・・。
たとえばそんな情景であったろう。ミニチュアのように縮小されていても、まだこの池が現実に存在し、泉の形を今もとどめている、ということに、やはり思いは帰りついていく。「決して涸れない泉」という何かの意思が働いたかのような表現に、どこか心が揺り動かされるのである。
京都市内ではあるし、これだけ開発が進んだ今、もうとっくに水が涸れてしまっていたとしても不思議はない。仮にもし将来この池が干上がり、埋め立てられて「神泉苑跡地」という石碑が一つ残るだけの殺風景な場所になったら、ここはもはや水の聖地とは呼べず、訪れる人もないであろう、と思われる。
バスで乗りつけた団体客がやってきて、橋の上に立って盛んに池を写し始める。二条城見学と組み合わせて立ち寄れるので、ここは観光名所なのである。特に朱塗りの可愛い橋は写真撮影に人気のある場所である。
欄干にもたれてぼんやりと池を見ていた私は、あのうすみません、と親子連れに声をかけられて我に返る。頼まれてカメラのシャッターを押してあげた後で、改めて神泉苑全体を眺めてみた。
石の鳥居に古い社。雨乞いの池。周りには樹木。池の中ほどには小島。朱塗りの反橋に稲荷の祠。でもここは明らかに真言宗のお寺の境内であって、北側には山門。本堂があり、句碑もあってさらに料亭まで・・・・。
実に色んなものが混在しており、神社のようでお寺のような、どちらともいいがたい雰囲気が漂っている。でも見えにくいが、その中で目を凝らしていると、澄み切った古代の泉が一瞬微かに垣間見える、紛れもない聖空間なのだった。
二条城
山門を出て、ここまで来たついでに、向かいの二条城を見学することにする。かつてここには古代の鬱蒼とした森が広がっていたのに違いない、と思いつつ、団体客に混じって門をくぐり、広々とした城の中を歩いていく。
二の丸御殿に入る。中の各部屋には、当時の様子を再現し、着飾った等身大の人形が置いてあった。実はその昔、私は小学校の遠足でここへ来たことがあるのだが、そのときにもこういう人形たちを見た記憶がある。
広間に座るリアルな表情の大名、侍たち。お雛様のような白い顔の侍女。もしかしてあの時と同じ人形なのだろうか。そういえば人形の衣装はかなり古びて色も褪せてきているようであるが。
・・・・水筒を肩に掛け、鈴のついた赤いリュックを背負った小学生の私が、廊下の陰からふっと現れた。珍しい人形にじっと見入る小学生の私がそこにいる・・・・。
年をとらないまま、何十年も座敷に端正に座り続けて、虚空を見つめている人形たちの前を、がやがやと観光客が通り過ぎていく。過ぎ去った時間の流れを思いつつ、私もその後について進んで行った。
庭園に出て、植えられた樹木の間をしばらく散策する。椿、楓、梅、桜、松、槐、蘇鉄、広大な敷地内にさまざまな木が見え隠れする。花をつけている桜の下にシートを敷き、お花見をしている人たちもいる。ここの天守閣は失われてもうないが、その跡は小高い見晴台になっていて、上ってみると、水をたたえた堀が周囲に巡らされ、遠くまで市内の景色が眺められた。
朱雀門跡
城を出て、JR二条駅の方向へと歩いていくと、千本通に出る。その通りを少し北方向に進むと、朱雀門跡という小さな石碑が目に入った。交通量の多い道路脇に、それはひっそりとまるで墓標のように立っていて、普通に歩いていれば、気がつかないまま通り過ぎてしまいそうなほど目立たない。
朱雀大路は平安京の南北を貫く、いわゆるメインロードであった。大路の名に相応しく、道路の幅は八十四メートルもあったというから驚く。両側に側溝があり、そこには柳の木が植えられていたとも伝えられている。
柳並木が風に揺れてそよぐ、幅の広い立派な道がここから南に向かってずっと伸びていたのだ。そしてその南端は羅城門であった。
朱雀門は平安京の正門に当たり、門をくぐるとそこには朝堂院はじめ内裏の建物群が麗々しく立ち並んでいたことだろう。古都の繁栄が偲ばれる。
現在復元されている奈良の平城京の朱雀門の外観から想像すると、平安京の朱雀門もおそらくは緑色の瓦が使われていて、屋根の両端には鴟尾(しび)が乗った、壮大な門であったかと思われる。石段がついて、立派な屋根もあることから、その下は人々の休憩に適した場所であったのだろう。
今昔物語の巻二十四には朱雀門に関してこんな話が載っている。
「僧登照、朱雀門の倒るるを相せること」
・・・・平安中期の頃、登照という僧が、朱雀門の前を通りかかると、老若男女たくさんの人が門の下で休んでいた。登照が見るとその人たちには皆死相が現れている。もし悪人がやって来て人を殺すとしても、それは少人数のことであろう。僧は直感で門が倒れるのかもしれないと思い、
「その門倒れぬるに、打ちおそわれて、皆死なむとす。とく出よ」
と大声で言った。その声を聞いて人々は慌てて逃げ出した。
すると風もなく、地震でもなく、門が歪んでいたわけでもないのに、俄かに朱雀門が傾き始め、倒壊してしまった。
急いで逃げた人は助かったが、僧の言葉を信じないでそのまま中にいた人や、出るのが遅れた人たちは死んでしまった・・・・。
人々の阿鼻叫喚の声が聞こえてきそうである。その幻の朱雀門を仰ぎつつ、想像の中でくぐり抜ける。かつての朱雀大路は、今はびゅんびゅんと車が行きかう、千本通に姿を変えている。道をしばらく北へと上がっていく。
大極殿跡
丸太町交差点まで来ると、銀行の角に朝堂院跡を示すプレートがあった。この辺りに大内裏の正庁である朝堂院(今の国会議事堂に当たる)があったらしい。その西側には迎賓館に当たる豊楽院があったのだろう。朝堂院は、いわゆる八省百官によって政務が執り行われ、また天皇が即位や大嘗会などの儀式を行った所である。そしてその後ろにあった正殿を大極殿といった。
大内裏は広く東西八町、南北十町を占めていたという。交差点を渡り、石の道標、案内板などを見て位置を確認し、大極殿跡を目指す。
内野児童公園という小さな公園の中に、隷書体で刻まれた大きな大極殿跡の石碑があるのを見つけた。分厚い碑である。そばには桜の木が植えてあって、見事に花をつけ、吹く風に揺れて花びらが散っていた。
ときどき散歩の人が立ち寄って、樹を見上げる。ブランコなど遊具もあるが、そこに乗って遊ぶ子供の姿はなく、近道をするらしい近所の主婦が、買い物袋を提げて公園内を横切っていく。しばらくベンチに座ってそんな情景を眺めていた。すぐ脇を道路が通っているので、車の音が騒々しいのが残念である。
住宅密集地の町の中の小公園に、いくら探しても、もはや平安の昔の面影は残っておらず、しかも最近の発掘調査の結果によると、本当の大極殿の位置は、正確にいうとここより少しずれているとか。そこはもう個人の住宅か店舗の中に入ってしまっているらしい。でもそうとわかっても、今さら建造したこの石碑を移動させるわけにもいかないのだろう・・・・。
今昔物語巻二十四の中から、紫宸殿の桜に因むところを抜書きしてみよう。(紫宸殿は内裏の正殿に当たり、南殿ともいう。古くは大極殿といった)
「敦忠の中納言、南殿の桜を和歌に読めること」
・・・・南殿の御前の桜(紫宸殿のいわゆる左近の桜)がたいそう美しく咲いて散り、庭に水面の波かと思うばかりに眺められた。その情景を見て感じ入った大臣は、ちょうど通りかかった敦忠の中納言に話しかけた。歌を催促されたと思った中納言は、
とのもりのとものみやつこ心あらば この春ばかりあさぎよめすな
(主殿寮の下役たちよ。もし風雅を解する心があるのなら、こんなに美しく花が散り敷く今年の春だけは、朝の掃除をせずにおいてほしい)
と当意即妙に詠んでみせた。大臣は返歌をしようと思ったが、これに勝る歌など詠めるはずもないと思い、仕方なく古今集にある古歌を呟いた。でもそれはこの場には相応しいものではなくて、敦忠の歌は世の人々の間で賞賛されたという・・・・。
目の前に公園の桜が散って舞っていた。もう一度大極殿跡を眺めてから、帰路につくことにする。本当をいえば元の朱雀大路をまっすぐ南下して、南の玄関口である羅城門跡まで辿ってみようかと、ちょっと思っていた。
地図を出してみると、今から歩くのでは時間がかかり、かなり大変であることがわかった。でも途中までは大路跡を歩いてみることにして、再び車が激しく往来する千本通を引き返していった。
さっき通った朱雀門跡をまた見て、JR二条駅を過ぎ、更に進むと、道が分かれているところに出た。ここをまっすぐ行けば羅城門跡に通じる道なのであるが、左側の道をとることにして、そのまま阪急大宮駅まで歩き、今日の散策を終えることにした。
引用参照
今昔物語集 本朝部(中)池上洵一編 岩波文庫