一上町台地を歩く一
難波宮跡 越中井 玉造稲荷神社 三光神社 生国魂神社
家隆塚 玉出の滝 安居神社 一心寺 四天王寺
一上町台地を歩く一
難波宮跡 越中井 玉造稲荷神社 三光神社 生国魂神社
家隆塚 玉出の滝 安居神社 一心寺 四天王寺
難波宮跡
史跡難波宮跡に立って北のほうを眺めると、大阪城が見えた。秀吉が築いた城は上町台地の北端にあり、ここからの距離はおよそ200メートル位であろうか。
難波宮跡は、現在広い公園になっている。宮跡に面した中央大通りには車が絶えず行きかい、道路を隔てたその周囲にはビルや公共の建物が立ち並び、中央区法円坂という地名でもわかるように、ここは市内中心部の坂の上にある。
公園内には全体に芝が敷かれ、広々とした無人空間は、生命感のない都会の中の廃墟めいた寂しさを感じさせる。公園にありがちな設備らしいものは特に見当たらず、そこにはいわば広大な無の空間が広がっているのだった。
歩いていくと、緑の芝の中に色分けしたタイルになっている箇所があった。それは遺構が発掘された場所を示しており、さらによく見ると、赤っぽいタイルは前期難波宮跡で、普通の石造りのものは後期難波宮跡であると説明されていた。
かつて二度にわたってこの場所に古代の宮が築かれ、都が置かれたのだ。二つの宮は重なっている部分もあるという。前期のものは孝徳天皇の難波宮、後期のものは聖武天皇の難波宮と呼んで区別されている。
ひときわ目立つ長方形の大極殿跡は少し高くなっていて、礎石の柱列の跡もそれとわかるようになっている。これは石造りなので後期の宮のほうであろう。前期のものでは、八角殿という遺構をかたどった赤っぽい藤棚が道路際に見えている。それは八角形という風変わりなもので、一説には仏殿であったともいわれている。法隆寺の夢殿のようなものを想像すればいいのだろうか。孝徳天皇については、こんな記述がある。
・・・・仏法(ほとけのみのり)を尊び、神道を軽(あなず)りたまふ。生国魂社の樹をきりたまふ類、是なり・・・・。(日本書紀)
孝徳天皇は、仏教に深く帰依されていたので、神道を軽んじられたというのである。難波宮造営の折には、生国魂神社の樹を伐ったとも。生国魂神社は当時上町台地の北端にあって、大和の国魂を祀る古社であった。
乙巳(いっし)の変の後、蘇我蝦夷、入鹿親子は滅ぼされ、皇極天皇は位を退いたが、次の皇位がなかなか決まらなかったことを書紀は伝えている。
中大兄皇子が皇位を継承するにはまだ時期が早く、入鹿と繋がりが深かった古人大兄皇子は、勧められたが辞退してただちに剃髪し、吉野に身を引いた(数ヵ月後に討たれる)。結局は固辞したものの、皇極天皇の弟の孝徳天皇が皇位を継ぐことになり、都は飛鳥から難波へと移されていった。港の近くにあった外国使節のための建物が仮宮として用いられたようで、新たにこの台地に宮殿が造営され、652年に完成、それは長柄豊崎宮と呼ばれた。
けれども翌年、孝徳天皇と中大兄皇子の対立が深まり、皇子は母(宝皇女、皇極帝)や妹(間人皇女)らを連れて飛鳥へと戻ってしまう。旧勢力を制するため、飛鳥へ帰ることを主張した中大兄皇子と、このまま難波宮に留まる意思を示した孝徳天皇の対立であったが、天皇を置いたまま、人々は去っていった。間人皇女は孝徳天皇の后であったが、夫ではなく兄につき従った。
・・・・天皇、恨みて国位(くに)を捨(さ)りたまはむと欲(おもほ)して、宮を山崎に造らしめたまふ。すなわち歌を間人皇后に送りてのたまはく
鉗(かなき)着け吾が飼ふ駒は引出せず 吾が飼ふ駒を人見つらむか
(かなきをつけて私が飼っている駒はどうしたろう、厩から引き出しもせず私が飼っている駒をどうして他人が見たのだろう)(日本書紀)
間人皇后が、中大兄皇子と心を合わせて大和へ去ったことを嘆く歌、と書紀の注にはある。
どこか怨念のこもる歌である。残された孝徳天皇は、譲位して山崎(京都大山崎)の地に離宮を造らせ、そこに隠棲することを考えていたようだが、実際には山崎に移ることなく、失意のうちに翌年病を得て難波で崩御、都は飛鳥に戻り、皇極が重柞して斉明天皇となった。孝徳天皇のただ一人の皇子である有間皇子は、蘇我赤兄の誘いに乗って謀反を企てて捕らえられ、658年に藤白坂で刑死、その後、686年に難波宮は火災により全焼した。
後期難波宮のほうは、聖武天皇の時代に、744年に遷都したものの、翌年にはもう紫香楽宮から平城京へと都は戻っている。聖武天皇は若くして即位したが、政治の実権は藤原氏の手にあった。
藤原四兄弟の画策による長屋王の変によって、長屋王と妻の吉備内親王らは自殺に追い込まれ、反藤原勢力は一掃されていく。反対派を排除して藤原氏の娘である光明子立后が成立した。後になって九州では藤原広嗣の乱が起き、その治世には災害も多かったようで、疫病(天然痘)による藤原四兄弟の死など相次ぐ出来事に見舞われ、貴族間の抗争も激化して、天皇の心の中はあまり穏やかでなかったようである。
天皇は各地に国分寺、国分尼寺を建て、大仏造営という一大事業を決意し、それを推し進めたことで知られる。一方で、藤原広嗣の乱の後、都を離れ伊勢巡行に出て各地に滞在、また短期間のうちにめまぐるしく都を移して彷徨を続けた。各地への巡行も、それは当時の政治的背景を考えれば意味を持つことだったかもしれないが、新都の建設、離宮の造営、またせっかく新都を造りながらそこに住まなかったということなども考え合わせると、どこか迷いのある権力者の不安定な心を反映しているようである。
恭仁京、紫香楽宮、平城京、難波宮、聖武天皇はその時期、どこに住んでも、何かの影がつきまとうように感じられ、真に心の平安が得られなかったのかもしれない。遷都を繰り返す中での海辺のここ難波宮も、天皇にとって安息の地であったのかどうか、歴史の記述でみる限り、わずかの期間の、それも形のみの都であったようである。
そういうことを思いながら、大極殿跡に上がって周囲を眺め佇んでいた。時代が隔たる二つの都はどんな風であったろうか。
新都が建設される度に、労役に動員されるのは民であったから、遷都は人々にとってさぞ負担が重かったことであろう。ちなみにこの後期難波宮の大極殿は、桓武天皇のとき、長岡京建設に当って移築されたという。建物は解体され、海へ出て、淀川をさかのぼり、新都へと船で運ばれていったのだろう。
大極殿の石段を下りながら、ここで近年、七世紀中ごろの木簡が発掘され、そこに書かれてある文字、
「・・・・皮留久佐乃皮斯米之刀斯・・・・」が、
(はるくさのはじめのとし)と解読されて話題になったのを思い出していた。おそらくは孝徳天皇の宮で、詠まれた歌だったのだろう。歌は出だしの部分だけなのだが、何となく、新しい年を寿いでいるような感じも受ける。新年の宴で朗詠されたものかもしれない。
越中井
ふわりと鳥のように飛行機が市街地の低空を飛んでいく。まるで大阪城を掠めていくかのようで、思わずその行方を見つめていると、飛行機はゆっくりと音もなく伊丹空港のほうに降りていった。
今いる難波宮跡は上町台地の北に当る。上町台地とは、大阪城から天王寺位までを指すのだと思うが、縄文時代はその辺りは細長く突き出た砂嘴で、西側は浪速の海、東側は河内湾であった。
弥生時代の古地図を見ると、動物の角のような形に北に伸びている。その後、河川の土砂の堆積によって、東側は次第に河内湖となり、時代を経るうちにやがてそれもなくなって平野と化していく。同様に西側も埋まっていくが、西側は台地からすとんと落ちる形になっていて、現在残る幾つかの坂も急であるのに対し、東側のほうは、大和川、淀川など河川の土砂量が多かったので、台地との落差は少なく、坂も緩やかである。
法円坂を東に向かってしばらく歩き、南へ下がると道路上の木下に、「越中井」を示す案内板があった。
細川忠興夫人玉(洗礼名ガラシャ)の終焉の地である。ここに越中守細川家の屋敷があったという。祠と台所の井戸の跡があり、玉の辞世を刻んだ石碑が建てられている。
玉は明智光秀の娘で、細川忠興に嫁いでいたが、父が起こした本能寺の変により、父母をはじめ家族と一族の人々を失った。既に嫁いでいた姉の一人も、変の後、婚家先で殺されている。夫忠興は玉を殺すに忍びず、丹後半島の味土野山中に幽閉し、後になって玉は秀吉に許され、忠興とともにこの玉造の屋敷に住んだ。
1600年、忠興が家康に従って上杉攻めに加わって会津に出陣中、石田三成は家康方の大名の妻子を人質に取ろうとはかった。事前にいち早く大阪から脱出した武将の妻もいたが、やむなく人質となり大阪城内に監禁された妻たちもいた。
三成方の兵に屋敷を取り囲まれたとき、玉は「人質になるな」という夫の出陣前の言いつけを守って人質を拒否、家臣に槍で胸を突かせ、直後に火が放たれて細川屋敷は燃え落ちた。玉はこのとき38歳、自殺を禁じるキリスト教の教えに従い、家臣の手によって死んだとされる。命をかけて人質を拒んだこの事件は衝撃的であったので、人々の同情が集まり、三成は以後大名妻子を人質に取ることができず、結果として、戦局は家康方に有利に働いたといわれている。石碑には次のような玉の辞世があった。
散りぬべきとき知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ
玉は美貌で知られていたという。まだ若く美しい人が、生に執着することもなく、死を選んでしまったのだ。辞世には死にゆく人のいさぎよさが感じられる。またこの歌には、父明智光秀のあの有名な愛宕山での句、
ときはいま天(あめ)が下しる皐月かな
が重なっているだろう。父のことはずっと玉の胸中から離れず、死に際して、自分なりの生き方や思いを、父が詠んだ語句を踏むかたちで、歌に示したと思われる。
本能寺の変以後、玉はずっと孤独であったと思う。逆臣の娘として生き続けなければならなかった人生は、辛いものであったに違いなく、心の救済を求めてキリスト教に近づいた心理もわかるような気がする。秀吉が玉に関心を示したことから、夫は妻の外出を禁じ、嫉妬深かったという。秀吉の死後も、ずっと妻への日常の監視は続いていたようである。
そうしたことを思うと、玉の壮絶な最期には、どこかあきらめに似た虚無感も漂っているような気がする。生き抜こうとする意思が希薄なのである。死に対する覚悟は既に持ち、心のどこかで死ぬ機会を待っていたのだとも感じられる。結局玉は死を選ぶことによって、夫とこの世の一切を捐(す)てたのであろう。
私事であるが、以前長岡京市に住んでいたとき、忠興と玉が若い頃住んでいた勝龍寺城界隈を何度か訪れたことがあった。玉の華麗な輿入れ行列が通ったという西国街道の町並みも一部保存されており、その雰囲気などもふと心に浮かべながら、玉のたどった運命に思いを巡らせ、今は古井戸一基だけが残る細川家の屋敷跡を眺めていた。
少し南へ歩くと、交差点の角に白いマリア大聖堂があった。玉造教会の広い前庭には右にガラシャ夫人像、左側にキリシタン大名の高山右近像が建てられている。
近づいて眺めると、ガラシャ夫人像は全体にほっそりと造形されていて、片手には純潔、無垢を意味する百合(聖書にこの花はよく登場する)を持って立ち、夫人は車の行きかう通りの向こうに遠いまなざしを投げかけているのであった。
玉造稲荷神社
通りを東に進んでいくと、玉造稲荷神社の鳥居が見えた。石段を登っていくと、右手奥に地面に深くめり込んだ形の石の鳥居の上部があってぎょっとした。阪神大震災で折れた古い鳥居の上の部分を埋めてあるのだった。豊臣秀頼寄進の鳥居という。由緒があるので壊れても捨てられず、こういうかたちで保存したのだろうが、足のない鳥居というのは、かなりシュールな光景であった。境内には秀頼の胞衣(えな)塚もあった。胞衣とは胎盤で、生まれた子供が丈夫に育つようにというお呪(まじな)いだったのだろうか。
神社の由緒説明を読むと、古代には、ここで勾玉が作られていたので、玉造の地名になったということであった。神社の創建は古く、垂仁天皇の頃というから、弥生時代である。
古代にはここに玉造り工房があったのだ。貴人の身を飾るメノウやヒスイの原石が、この地に住む玉作の工人によって、磨かれたり加工されたりしたのであろう。錐で穴を開けたのではなく、研磨剤を使ってあけたのだとか。
勾玉は独特の不思議な形をしている。勾玉については「三日月」や「胎児」あるいは「動物の牙」そのほかにも「釣り針」「腎臓」と諸説あるが、私は三日月説が好きである。境内には弥生時代の建物をかたどった資料館があって、勾玉や遺物が展示されているそうだが、残念ながら鍵がかかっていた。
三光神社から空堀商店街へ
稲荷神社を出てさらに南へ進んでいくと、三光神社の境内に入った。小高い丘になっていて、大阪冬の陣で、真田幸村はここに真田丸という三日月形の陣を築いたと伝えられる。幸村の軍の活躍はめざましく、境内にはその功績を称えて幸村の銅像があり、像の近くには「抜け穴」跡があった。大坂城とここを結ぶ穴を掘ったといわれていて、それらしいものの跡の一部が確かに口をあけていた。
なおここには片足だけになった鳥居があって、それは第二次大戦時、大阪空襲の折に爆撃されたものという。玉造稲荷神社も壊れた鳥居の一部を捨てずに境内に大切に保存している。たとえ潰れても、鳥居は神社にとって神聖なものであるからだろう。
夕暮れ近くなってきたので、西に向かって歩き、空堀(からほり)商店街界隈を見て帰ることにした。通り過ぎる町名も空堀〇丁目と表示されていて、ここがかつて堀であったことがうかがえる。秀吉が大坂城を築いたとき、ここに外堀が掘られたのだがそれは水を入れない堀であったので、空堀と呼ばれたのが地名の由来であるという。
真田幸村の活躍が功を奏した大坂夏の陣の後、和睦を申し入れた家康は、大坂城の外堀を埋めることを要求した。評定の場で反対派の意見は入れられず、この空堀は家康の要求どおり埋められることになった。それは家康側の考えた策であった。堀は完全に埋めつくされてしまい、その際に幸村が築いた真田丸も破壊されたという。堀が消えてしまったことは、大坂城への兵の侵入がたやすくなったこと、すなわち城の弱体化を意味する。大坂方には非常に不利で、冬の陣の敗北の一因にも繋がっていった。
そういういきさつを持つ空堀であった。この界隈は、幸いにも第二次大戦で米軍の空襲を免れたので、昭和のレトロな雰囲気が今も残っている地域として、最近では知られるようになり、ちょっとした名所となっているそうだ。
台地上にある街角には、急な石段や路地、長屋、古風な屋根に格子戸のついた家、昔ながらの商店などが軒を並べている。サンダルを突っかけて夕食の買い物に出かける主婦、玄関前に並べた植木鉢に水をやる老人、駄菓子屋、荒物屋、履物屋などが、古い映画の中の一場面のように眺められる町である。
よそのお家の様子を覗いてまわるのも申し訳ないと思いながら、迷路のような路地裏を歩いていくと、つけっぱなしのテレビの音が聞こえてきたり、猫が出てきたり、よく手入れされた盆栽の鉢の棚があったり、黒い板壁の台所から煮物の匂いが流れてきたりする。人々の生活の様子が透けて見え、どこか懐かしさの漂う空間が続いていくのだった。歩いていると、直木三十五記念館があった。直木賞は芥川賞と並んで有名だが、直木三十五自身については、よく知らなかった。大阪人であり、しかもここ中央区出身の作家だったとは。時間が遅かったため、中へは入らなかったが、外から見ると建物は比較的新しい感じであった。
生国魂神社
生国魂(いくくにたま)神社を訪れた。地元では、いくたまさんと呼ばれている。ここは大和の国魂を祭る神社で、創建は神武天皇が浪速津の石山崎(現在の大阪城内)で生島神、足島神を祀ったことによるそうだ。元のお社はここではなく、大坂城の追手門(生玉門)の辺りにあったとされる。
孝徳天皇が難波宮造営時に、生国魂神社の樹を伐らせたことは前述したが、古代では上町台地は細長く延びていて、その北端に生魂社があったという。後になって秀吉が大坂城築城の際に社を現在地に移したと伝えられる。
生国魂神社の神事としては、八十島(やそしま)祭が挙げられる。八十島祭は宮中祭祀で、天皇の即位の翌年に、難波の海辺で行われ、その儀式は天皇の御衣を入れた筥(はこ)を勅使が海辺で開き、女官が揺り動かして行うという。
難波には往時多くの島があり、今も福島、柴(くに)島、中之島、御幣島などの地名として残っているが、それらの島々を大八洲に見立て、島の神霊を招き寄せて熊川尻(淀川河口)で儀式を行った。筥を揺らすことは、いわゆる魂振りで、新しい魂が活力を与えられ足魂(咲魂)になることを意味する祝福の儀礼であったという。
文献上では文徳天皇の時とされるが、もっと古くから行われており、天皇自ら難波津に出向いて行う神事であったとも。
生国魂神社の境内は、昔はもっと森が深く広がっていたかもしれないが、今は少ない樹木の間に摂社、末社、祠、句碑、銅像などが立ち並び、神社の周囲は派手な看板のラブホテル群に取り囲まれていて、聖俗入り混じった何ともいえない雰囲気の中にある。
社殿は明治の頃に焼失、昭和二十年にも空襲を受け、さらにジェーン台風でも損壊、現在の社殿は、その後鉄筋コンクリートで建て替えられたものであるという。台地上にあるので災害も受けやすいのだろうが、その都度再建され、現在は非常に堅固な感じのする建物になっていた。
菊に出て奈良と難波は宵月夜 芭蕉
境内の芭蕉の句碑にあった。芭蕉は九月八日に伊賀を出て、九日、つまり菊の節句の日に奈良を発って難波に入ったという。その後女弟子の園女宅で句会が開かれたが、出された食事で(きのこにあたったという説がある)食中毒を起こし、寝込んでしまう。南御堂花屋で療養するが、回復せず次第に悪化、
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
などの句を残し、十月に亡くなった。
芭蕉最後の旅で詠んだ句の一つが、この「菊に出て・・・・」であった。菊と月が詠みこまれており、一見きれいな情景だが、一ヵ月後に訪れる死を思うと、そこにはしんとした寂しさも漂う。句碑は樹木のそばにひっそりとあった。
井原西鶴の銅像もその近くにあり、西鶴は羽織姿で座っている。「好色一代男」「世間胸算用」「日本永代蔵」などで有名な西鶴は、実は俳諧が出発点だったそうで、それも一人で連続して詠む「矢数俳諧」を興行した。この神社の境内で、一昼夜に四千句を詠んだのだという。西鶴自身も大変だったろうが、句を記録するほうも、見物人も、体力の要ることだったろう。西鶴はその後も独吟の記録更新に関心があったようだが、ただ数が多ければよいというものでもなかったらしく、
射てみたが何の根もない大矢数
没後刊行された「花見車」に、ふっと述懐めいた句も残しているそうだ。
また境内には大坂城の鬼門守護の城方向(きたむき)八幡神社、淀の方ゆかりの鴫野神社、また浄瑠璃の守護神を祀る浄瑠璃神社、鞴(ふいご)神社などもあった。
摂津名所図絵にも、神社界隈の様子は「茶屋軒をつらねて賑はしく・・・・」と記述してあるそうで、他にもさまざまな催しや興行がここで行われたという。市内の中心部に位置しており、祭日には人が集まりやすく賑わう場所であったのだろう。
神社を出て、寺町界隈を通っていく。道の両側にはお寺が並び、京都を思わせる光景である。境内には樹木が茂り、梢から鳥の鳴き声が聞こえてくる。戦国武将の墓もあるそうで、ちょうど門が開いていたお寺に何気なく入ってみると、すぐ目の前にいきなりお墓が林立していて、その中には名のある武将らしい大きな黒ずんだ五輪塔もあった。
家隆塚 夕陽丘の碑
新古今和歌集の撰者の一人である藤原家隆の塚を訪ねる。家隆は晩年出家してこの台地に住み、「夕陽庵」を結んだことで知られている。夕陽丘という美しい地名は、この夕陽庵が起源となったという。
塚は大きなものであった。案内板によると、家隆は沈む夕陽の彼方に浄土をみて、極楽往生を願う「日想観」を修行していたようである。往時は四天王寺の西門の向こうには砂浜と浪速の海が広がっており、春秋の彼岸には、鳥居の正面の水平線に夕日が沈んでいく荘厳な情景が見られたという。その海はそのまま極楽浄土へ続いていると信じられた。
日想観は極楽往生に達する観想の一つで、家隆は日々落日に向かって念仏を唱え続けたのであろう。ここで詠まれたという家隆の歌。
契りあればなにわの里にやどりきて 波の入り日をおがみつるかな
家隆は鎌倉時代の公卿で歌人として知られ、藤原俊成に和歌を学んだ。後鳥羽上皇とも和歌を通して親交があり、承久の乱を起こしたものの鎌倉幕府に破れ隠岐の島に流された上皇と、歌のやり取りをして慰めたという。
もう何年前のことになるだろうか、上皇が住んでいたという水無瀬離宮(今は水無瀬神宮になっていて祭神は後鳥羽上皇)近くの水無瀬の滝を訪れたとき、滝のそばに家隆のこんな歌碑が建っていた。
水無瀬山せきいれし滝の秋の月 おもひいずるも涙なりけり
水無瀬離宮では歌合、蹴鞠、狩猟、刀剣の鍛冶などが行われ、上皇はこの地を好んでたびたび行幸したと伝えられる。一流の歌人を集めての歌合には家隆も加わっていた。
流罪地の隠岐で没した上皇は、遠流を重過ぎる刑と感じていたといわれ、離宮のあった水無瀬への思いも並々でなかったようである。崩御の前に水無瀬の所領を気にかけ、朱の手形を押してつづった手紙も残している。
家隆は上皇とともに過ごした水無瀬の地に佇んで、上皇の運命の変転に思いを馳せて滝の歌を詠んだのだろうか。
風そよぐならのおがわの夕ぐれは みそぎぞ夏のしるしなりける
これは百人一首に入っている家隆の歌である。爽やかな季節感が読み込まれ、水辺の感触が伝わってくる。奈良を詠んだ歌ではなく、上賀茂神社境内の森を流れるならの小川の情景をうたっている。六月の終わりの日、半年間の罪や穢れを祓うため、神社では夏越しの祓が行われた。茅で大きな輪を作り、人が八の字の形を描いて三度通り抜けるいわゆる「茅の輪くぐり」である。このときに、
みな月のなごしの祓へするひとは ちとせのいのちのぶといふなり
の歌を唱えながらくぐり抜けるとよいのだそうだ。その宵に、上賀茂神社では「ひとがた流し」の神事も行われた。人の形に切った白い紙で体をなで、さらに息を吹きかけて罪や穢れを移したものを、神職が小川に流す。現在も続く行事で、篝火が焚かれ川面が照らし出される中、たくさんの紙のひとがたが、ならの小川に流れていく。家隆はその夏の宵の神事を詠んだのである。
ちなみに京都ではこの日に「水無月」という和菓子を食べる慣わしがある。白いういろうの上に小豆を乗せた三角形のお菓子で、抹茶味のもあった。
以前京都に住んでいたとき、店頭に並ぶこのお菓子をみると、季節を感じた。学校給食でもこの日には小さな「水無月」がデザートにつく。京都の行事食なのである。
六月に入るともうスーパーでも売られていたが、六月三十日まで買うのを我慢し、近くの神社にお参りしたあとで「水無月」を求めることにしていた・・・・。
つい話が横道にそれてしまったが、楢(なら)の葉が風にそよいでいる清涼感、夏に行われる禊の神事の持つ涼しげで清らかな雰囲気。家隆の歌の中では、百人一首にとられていることもあって、こちらのほうがよく知られているだろう。
家隆は晩年病を得て出家し、浪速の海の見える高台の地に移り住んだ。落日に浄土を想って修行の日々を送り、最晩年を過ごしたのだろうか。
後鳥羽上皇と二人の皇子たち(順徳天皇は佐渡へ流され、土御門天皇は乱とは無関係であったが自ら申し出て土佐に下った)の運命の変転を見つめてきた家隆の心には、どんな思いが去来したことだろう。
現在家隆塚からは海はどこにも見えない。かつて波が打ち寄せていたと思われるその坂の下の向こうには、密集した市街地が折り重なるようにどこまでも続いている。
玉出の滝 安井神社
愛染堂、その隣の大江神社を経て、急な愛染坂を下りていく。細い道を進み今度は清水坂の表示を見て上がっていくと、ほどなく清水寺の墓地が塀越しに見えてきた。どこから入るのかわからなかったが、とにかく墓地の中へと入り込み、聞こえてくる滝の水音をたよりに石段を伝い降りると、お堂とその奥に細く流れ落ちる滝があった。
京都の清水寺を模したお寺なのだそうである。滝は小さいながらも音羽の滝をかたどっているのだろう。「玉出の滝」と呼ばれている。大阪市内で自然の湧水は珍しいし、滝があるとはさすがに上町台地、と感心しながら近寄っていくと、中年女性が一人、白衣をまとい滝に打たれているのが見えた。
冬のさなか、こごえるような寒さである。信仰とは強いものだなあと思っていると、女性は突如「臨兵闘者皆陣列前行」と叫んで右手で空間に向かって九字を切り始めた。何度も繰り返すその手つきはすばやく慣れていた。いつもここで滝行をしているのだろうか。あまり見るのも失礼と思ったので、そっとその場から離れ去った。
四天王寺に向かって進んでいくと、道は自然に安居(やすい)神社の境内に出た。菅原道真を祀る天神社であった。大宰府に流される途中、道真は四天王寺に参拝してここで休んだのだそうだ。「真田幸村終焉の地」と案内板にある。幸村はここで戦死したらしく、そのことを記した碑があった。「安居天満宮 真田幸村ゆかりの地」と染め抜かれた幟が、境内の各所ではためいている。
幸村は実戦には非常に強かったようだが、軍議の場においては存在が軽んじられ、意見も通らず、提案した作戦も無視されてしまったようである。戦術に長けた人としてはさぞ残念だったことだろう。死を覚悟して茶臼山に布陣し、この境内で戦って死んだとも、木に寄りかかって休憩中を襲われたとも。さなだ松、棺沈めの井戸の跡、境内には幸村にちなむ夏の陣の様子を物語るいくつかの立て札があった。
一心寺
安居神社を抜けると広い道路に出た。道路を渡ったところに一心寺がある。浄土宗のお寺で、開祖は法然上人。ここで日想観の修行を行ったということである。往時は海が近く、ここから海に沈んでいく夕陽が眺められたことだろう。多くの人が海の彼方にあるという極楽浄土を信じ、念仏を唱えながら入水した浜辺であったと伝えられている。
お寺に近づいてみると、モダンアート風の山門と大きな仁王像にまず驚かされた。強烈な雰囲気の玄関口である。鉄とコンクリートのデザインも斬新であるが、とてもお寺の門とは思えず、二体の異形の仁王様も異様な造形でリアルに過ぎ恐ろしい。あまりの迫力に驚愕し、なるべく見ないようにして門をくぐり、境内に入った。
目の前にぱっと砂煙が舞い上がっていた。何事かと見ると、おびただしい数の鳩が群れていた。鳩に餌をやる人がおり、地面でついばむ鳩をめがけて野良猫が突進した瞬間なのだった。すさまじい羽ばたきの音とともに鳩は空に逃げ、辺りに砂が飛び散ったのだった。
ベンチには所在なげな様子で老人たちが坐っている。境内のベンチというベンチは老人で埋め尽くされていた。一人の老人が立ち上がり、袋から食パンのへたを一枚抜き出すと、細かく手でちぎることもなく、まるごとそのまま、再び舞い降りてきた鳩の群れに投げた。老人は食パンを切り出すときにできる、半端な両端の部分ばかりを詰めた袋を持っている。わっと鳩が群がり寄って食料の争奪戦が始まり、パンはつつかれて次第に形が崩れていく。ベンチの老人たちはそれを無言で見つめている。
鳩の背後には何匹かの野良猫が集まっていて、中にはししがまえの姿勢でそろそろと近寄っていく猫もいる。
危ないなと思った瞬間、一匹の虎猫が飛びかかり、逃げ遅れた鳩をしっかりとくわえた。そのまま持って走り去ろうとする。狩に気づいた別の老人がベンチから立ち上がると、こらっと大声で猫を叱った。それだけでは足りないと思ったのか、持っていた杖で猫を打とうとした。猫は驚いて鳩を落とし、鳩は何とか飛び立って近くの木の梢に消えた。老人はさらに猫を追いかけて石を投げて怒ったので、猫は遠くへ走って逃げた。
新しいパンが投げられ、またそちらへ鳩が集まっていく。鳩を狙い、にじり寄っていく別の猫。その様子を見守る老人たち。猫の突進と羽ばたきと砂煙・・・・。この繰り返しであった。おそらく何時間もこの光景が続いているのだろう。
我に返って見回すと境内には墓が多かった。名のある戦国武将の墓は巨大であり、芸能人や有名人の墓もあるそうだが、並ぶ墓石の列を見るとその数に圧倒されて、近づいて墓銘碑を読む気も失せた。
大坂夏の陣ではこの辺りは激戦の地であった。またこのお寺には、無縁仏や納骨されたおびただしいお骨でこしらえた「お骨仏」があるので有名なのだが、(十年ごとに仏様を造立して開眼、現在も受付け中であった)真白い仏様を思うだけで血の気が引いていく気がする。死が満ちている空間なのであった。気のせいか境内はそこにいるだけで、どこか重苦しくなるような濃厚な気配が漂っている。
五輪塔の前を通りかかると、さっき鳩を取り損ねた虎猫が墓石の横にぽつんと坐っていた。その猫に向かって老人がなにやら説教している。
「あんた、ここは寺やで。殺生したらあかん。鳩取ったらあかんのや。わかるか」
猫にはたぶんわからないであろう。猫は鳩をくわえたときの嬉しさが忘れられず、このあとまた狙いにいくに違いない。親しく話しかけてくれる老人の口調に、慰められているとでも感じたのだろうか、猫はいっとき目をしばたたかせ、優しい表情になって首をかしげ老人のほうを見上げるのだった。
四天王寺
一心寺を出て道路を渡ると、四天王寺はすぐのところにあった。
石の鳥居をくぐる。道路は鳥居をよけるように道がつけてある。見上げると鎌倉時代の立派な石鳥居で、神仏習合の時代にここに建てられたものという。往時は鳥居の向こうには砂浜が続いていたのだろう。春秋の彼岸には、西門大鳥居の正面の海に夕陽が沈むという荘厳な光景が見られたという。いま海ははるか遠くに後退し、ここは大都会の喧騒の中にある。
極楽往生を願う人々にとって、ここは聖なる地であった。海の彼方にあるという極楽の側からみれば、ここは東門に当り、あの世とこの世の境界になる。その結界がこの鳥居とみなされたのであろう。
ちなみにこの石鳥居は日本三鳥居の一つで、三鳥居とは、安芸の宮島の朱色の大鳥居(木)、吉野の金峯山寺の銅(かね)の鳥居(金属)、それとこの鳥居(石)。それぞれ島、山、海の聖地に建てられている。
石畳の参道を進んでいくと、西大門に至る。極楽門ともいうそうだ。転法輪という輪があって手で回せるようになっている。お釈迦様の仏法を授かれますように、と願いつつ回してから門をくぐるとよいのだそうだ。欲張って何度も回してしまった。船の舵のような形で、くるくると動くので面白いのである。
四天王寺は推古元年(593年)、聖徳太子建立の寺として知られている。日本書紀の記述を少しみてみよう。
・・・・蘇我馬子宿禰大臣(そがのうまこのすくねおとど)、諸皇子と群臣とに勧めて、物部守屋大連(もののべのもりやおおむらじ)を滅ぼさむことを謀る。・・・・渋河の家に至る。大連みづから子弟と奴軍(やっこいくさ)を率いて稲城を築(つ)きて戦ふ。ここに大連、衣揩(きぬすり)の朴(えのき)の枝間(また)に昇りて、臨み射ること雨の如し。・・・・皇子等の軍と群臣の衆、弱くして恐怖(おそ)りて、三たびしりぞく。
是の時に厩戸皇子、束髪(ひさご)はなして・・・・すなわち白膠木(ぬりで)をきりとりて、疾(と)く四天王の像に作りて、頭髪に置きて、誓をたててのたまはく「今もし我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四王のみ為に寺塔を起立(た)てむ」
・・・・ここに迹見首赤檮(とみのおびといちひ)ありて、大連を枝の下に射堕(いお)としてその子等を誅(ころ)す。是によりて大連の軍、たちまちに自らに敗れぬ。・・・・乱をしずめて後に摂津国にして四天王寺を造る。(日本書紀)
神道を重んずる物部守屋は、崇仏派の蘇我馬子とかねてより反目し合っていた。疫病の流行は仏教を信仰して広めたためと、守屋は馬子の寺を襲って焼き、焼け残った仏像を難波の堀江に捨て、三人の尼を捕まえて鞭打つなどして、敵意を示した。
敏達天皇は病が重くなって崩御、弟の用明天皇が即位したが、病を得た折に、仏教に帰依することを願ったため、馬子と守屋の対立はさらに深まっていった。ついに馬子と守屋が確執の末、戦いを起こすことになる。
守屋は居宅のあった渋河に稲城を築いて応戦、榎の木に登って多くの矢を射かけ、はじめ形勢は蘇我軍に不利であった。蘇我軍に加わっていた聖徳太子は髪をほどき、霊木のぬりでの木をとり、自分で彫った四天王像を髪にのせ、誓いを立てて戦勝を祈願、進撃がはじまった。守屋は榎の樹上にいたが、迹見赤檮が矢で射落として、大連とその子等を殺した。戦いに勝利した後、四天王を祀る寺を建立した、というのである。
守屋の邸があった渋河の地がどこにあるかについては、(他にも候補地があるが)八尾市の渋川神社という説が興味深い。渋川神社は小高くなった位置に築かれており、かつて池の中の小島であったと伝わる地形の面影を今も残している。そこには守屋の別邸があったとも伝わる。以前、社殿の裏には笹が生い茂った中に大きな楠があり、近づこうにも蛇が出そうで怖かった。
先日久しぶりに渋川神社を訪ねてみると、記憶にあった背の高い銀杏は落雷で消え、大楠の周囲はきれいに整えられて、笹など影も形もなく、明るく開けた場所に変わっていた。以前恐れて見上げた大楠は、日差しを浴びて周囲に枝を広げさわさわと風に揺れている。説明文によると、楠は大阪府の天然記念物に指定されていて、樹齢は一千年ということであった。
渋川神社の祭神は、物部氏の氏神である饒速日命(にぎはやひのみこと)であるが、物部守屋を祀るという説もあるそうだ。祭神ははっきりせず何となく謎めいている。蘇我、物部両軍の戦跡地とされる場所は近くにあり(太子堂付近)、「守屋首洗いの池」のある大聖勝軍寺や守屋の墓所、鏑矢塚、弓代塚なども割に近くに位置しており、渋川神社が守屋の館跡とされることから、守屋終焉の地である可能性も考えられる。
四天王寺の歴史については「四天王寺の黒鳥」(谷川健一著 新潮社)に詳しい。それによれば、馬子と守屋の対決は、単に崇仏派と排仏派の戦いというだけではなく、皇子の擁立、その皇位継承を巡っての蘇我と物部の権力闘争があり、守屋滅亡の裏には、守屋の妹(馬子の妻)による何らかの画策があったという。
・・・・時の人相かたりていはく、「蘇我の大臣の妻は、是物部守屋大連の妹なり。大臣みだりに妻のはかりごとを用いて大連を殺せり」といふ。(日本書紀)
また皇極紀には、守屋の財宝、土地は守屋の妹がその多くを受け継いだので、蘇我蝦夷、入鹿の頃には、その財が大きな力となって蘇我氏が繁栄した、という短い記述もみられるそうだ。
そしてさらにその背後にも、炊屋(かしきや)姫皇后(敏達天皇妃、後の推古女帝)が守屋に反発する事情があったという。
炊屋姫皇后が奉仕していた敏達天皇の殯の宮に、野心を持った穴穂部皇子が侵入しようとした。門を守っていた三輪君逆(みわのきみさかう)が防いだのだが、穴穂部皇子は逆を憎み、逆を討つことを馬子に告げた。逆は逃亡するが守屋が追跡して殺害した。逆は皇后の寵臣であった。この出来事で、炊屋姫は穴穂部皇子と守屋に対し、強い反感を抱いていたという。
穴穂部皇子は敏達天皇崩御の折も、皇位を望んでいたようだが、用命天皇(敏達天皇の弟)が即位した。二年後病を得て用命天皇が崩御すると、守屋は穴穂部皇子を立てて(皇子は乱暴な性格だったので、守屋は替えようとしていたという説も)、狩猟に事寄せ軍を起こそうとした。そのはかりごとを知ると、馬子は攻勢に出て炊屋姫を奉じ、臣下に穴穂部皇子を討たせた。皇子を失って孤立したものの、守屋は一族とともに本拠地に立て籠もって応戦、敗死する。
その戦いの折、聖徳太子はまだ十四歳であった。参戦していたとしても、戦力になったとは考えにくく、陣地における太子誓願の四天王寺逸話は、後に作られた可能性があるという。
587年、守屋の死で軍事の名門であった物部氏は滅亡した。書紀には、守屋の近侍の壮烈な戦闘の様子や、主人の屍から離れようとしなかった忠実な飼い犬の話などが載っている。
戦いの後、生き残った守屋の一族、臣下は追っ手を逃れ各地に散らばり、姿を変え、あるものは遠くまで落ちのびていったという。各地の物部の支族を頼っていったのであろう。
戦いがしずまって、崇峻天皇が即位し(後に馬子によって弑せられる)、政治の実権は馬子の手に握られていく。そして守屋の霊を供養するためもあって、激戦地の一つであった玉造の地に、四天王寺の前身となる寺が建てられた。寺の伝承では、恨みを抱く守屋の化身とみられる悪鳥が来て、寺をつついて損壊したという。
そして六年後の推古元年、上町台地の南端に官寺である四天王寺が建立された。造立には聖徳太子が当たり、仁王門、五重塔、金堂、講堂が南北一直線上に並ぶ、いわゆる四天王寺様式といわれる壮麗な寺院であったという。
物部氏は河内に広大な領地を持ち、多くの財宝、奴婢を所有していたが、守屋の家の奴の半分と居宅を分け、四天王寺の奴、田荘(たどころ)としたと書紀は伝えている。つまり四天王寺には没収した土地が使われ、寺の建立、労役や維持にも職掌に応じて物部氏の奴婢が用いられたというのである。
四天王寺側の伝承によると、悪鳥がやってきて、それは啄木鳥(きつつき)であったが、寺を損なうので「てらつつき」と呼ばれ、相つぐ被害に困っていたところ、あるとき白鷹が現れて悪鳥を追い払った。白鷹は太子の化身であり、守屋が化身した悪鳥を追って寺院を守ったというのである。
現在も金堂の上部には「鷹の止まり木」がちゃんとしつらえてあり、この伝承を裏付けているそうだ。また境内の一角には、守屋祠があってその霊が祀られているという。
物部氏の奴は四天王寺の寺奴婢となって、さまざまな分野で使役されたが、現在でもそれは続いており、公人(くにん)と呼ばれて務めを果たしているという。今は寺の伝統行事に携わる役を受け持っているのだという。
四天王寺は造立時には敬田院、施薬院、療病院、悲田院の四つから成り、寺、病院、孤児院や養老院の役割を持つ総合的な施設であったようだ。また中世に入ると、説教節「しんとく丸」の舞台ともなって、広く知られるようになった。
しんとく丸は高安の長者の息子で、四天王寺で舞楽の舞手を務めた折に、見染められて良家に婿入りするが、義母に妬まれて失明する。その上悲惨な病にかかり四天王寺門前で暮らすようになるが、妻が見つけだし仏の加護で回復するという話である。
古来業病にかかった人が四天王寺門前に捨てられて施しを受け、行き場を失った人や物乞いも参道に多く坐っていたという。
遠い記憶であるが、子供の頃、母に連れられて何度か四天王寺にお参りに行った。まず亀池に行って群れている亀を飽きずに眺めたあと、祖父母や親族の戒名をお坊さんに筆でさらさらと書いてもらった経木を、柄の長いひしゃくで亀の井戸に浸して供養してもらうのだった。井戸は大きな亀の形になっていた。
昔日の思い出を求め、懐かしい四天王寺境内を歩いていった。石舞台を見て、(これは日本三舞台の一つで、他は厳島神社の板舞台、住吉大社の石舞台)亀池に近寄ると、どう目を凝らしても亀はほとんどおらず、経木を流した亀の井は新しくなっていて、記憶にある屋外の情景とは異なった見知らぬお堂がそこにあった。遠い日に母と過ごしたひとときがしっかりと心に刻みつけられていたが、もう同じ建物はないようで、あれから何十年もたったのだと、時の流れをしみじみと思うのだった。
庭園のほうに行ってみた。金堂に鷹の止まり木や境内に守屋祠があることは、今回谷川氏の本を読んで初めて知った。行ってみると、庭園の隅にある守屋の祠には入れなかった。月に一度、聖徳太子の命日にのみ入れるということであった。遠くからその赤い祠が見えていたが、妙に色が鮮明であるのが気になって受付の人に尋ねてみると、阪神大震災で祠が倒壊し、新たに造り直したということであった。
守屋は神道を奉じて仏教と戦った人ということで、八尾市にある守屋の墓所は、狭いながらも、全国の格式ある有名神社が一基ずつ寄進した名入りの玉垣に取り囲まれている。神道派の守屋としては、こういう形で敵方である四天王寺境内に自身の霊が祀られることには、複雑なものがあるのではないだろうか。
仏敵であるため、守屋祠に石が投げられて壊されるので、寺側は祠に熊野権現の札を立てたこともあったという、谷川氏の本の記述を思い出した。怨念のあまり鳥になってまで、寺を壊そうとした守屋鳥の伝承を思い合わせると、祠は祟り封じの意味もあって建てられたとも考えられるだろう。縁者の手によって心から慰霊されなければ、猛霊は鎮まらないそうだから、寺奴婢となった物部氏の一族の末裔が、今も祀り続けて今日に至っているのかもしれない。
谷川氏は、著書の中で、物部氏の奴の子孫が、当時の所縁の名もそのままに、現在も四天王寺で奉仕を続けているという事実を知って非常に驚いておられた。けれども家系とは、そうやって続いていくものではないだろうか。たとえば私の生家のお隣には、物部さんという名の一家が住んでおられたし、小学校でも刑部(ぎょうぶ)さん、など古代の雰囲気を持つ姓の人がいた。
弓削(ゆげ)は現在八尾市の地名にも残っている。守屋は物部弓削守屋大連と敏達紀にも記載されていて、弓削は守屋の本貫地とされている。古い土地では古い姓は特に珍しいわけではなくて、ご先祖を遡っていけば、それぞれ古代の氏族、地名、職掌にたどりつくのだろう。
そういうことをあれこれ思っていると、突如和洋折衷の仏教歌が大音響で境内に鳴り響いてきて肝をつぶした。時計を見ると四時であった。何となくお寺は五時まで開いている、と思い込んでいたが、冬季は四時に受付業務が終了ということであった。
「鷹の止まり木」もまだ確認していなかったし、ちょっと残念ではあったが、音楽に急かされて気持ちが落ち着かないので、このまま境内を出ることにした。
振り返ると、本堂の下には、路上生活者の侵入を防ぐためにか、あるいは他の理由からなのかネットが張りめぐらされており、境内各所にも同様のネット、柵、鍵が厳重に設けられている。そのものものしさを見ていると、何となく寂しい気持ちになった。
子供の頃、四天王寺に来ると、戦後何年も経ったのに、白衣の傷痍軍人がアコーデオンを鳴らしながら軍歌を歌い、やせ細った物乞いの人たちがござなどを地面に敷いて、ひっそりと門前に坐っていた。そういう光景が幻のように脳裏をよぎっていく。母はお参りの行き帰りに、一番弱々しそうにみえる「おこもさん」の容器に、そっと小銭を入れにいくのを習慣にしていた。
色あせた遠い日の情景が、今見ている現実の風景と重なり交錯する。この寺はもう弱者に対して開かれてはいないのだろうか。囲いをこのように厳重にしてまで寺院を守らねばならないという現実の厳しさが、少々やりきれないものに感じられる。昔訪れた地を訪ねるとはこういうことなのだろう。仕方のないこととは思いつつ、昔と雰囲気の変わってしまった四天王寺にさまざまな思いを抱きつつ、ひと気の消えた西門を出る。
石鳥居を抜けると、とたんに夕暮れ近い町の雑踏と活気が押し寄せてきた。最寄りの地下鉄の駅を探して北に向かうことにする。日が傾きかけた空から急に冷たい風が吹き降ろしてきて、思わず身震いし、ここが上町台地の上にあることが感じられた。