宇倍神社(因幡一宮) 一山陰の一宮一
宇倍神社(因幡一宮) 一山陰の一宮一
JR鳥取駅から東南方向にバスで十数分、石の鳥居をくぐると、因幡一宮の宇倍(うべ)神社へと続く長い石段が見えてきた。杉、檜を中心とする周囲の樹木のたたずまいは美しく、緑の中を進んでいると心が洗われていくようであった。石段を上りきると、森の中の開けた空間に社殿が建ち、その背後には標高二四八メートルの稲葉山(古くは因幡山とも)がある。
流造りの本殿には風格が感じられる。境内は掃除がゆきとどいてごみもなく、手水舎の足元には秋海棠の可憐な花が咲いていた。境内右手には神饌所があり、これは神への供物を調理する場所だが、現在は使われておらず、入口の注連縄がひっそりと風に揺れている。境内左手の木立の奧には国府(こう)神社があって、数柱の神々が合祀されていた。
宇倍神社の祭神は武内宿禰(たけのうちのすくね)、孝元天皇の曾孫という。景行天皇から五代の天皇に仕えたという重臣で、神社の説明によれば「総理大臣の祖」とのこと。社殿と肖像画が戦前の紙幣(五円札)にも用いられたそうだ。
記紀にはたびたび武内宿禰の名が見える。東国を視察して蝦夷攻略を天皇に進言(景行紀)、成務天皇とは同日生まれで、大臣となる(成務紀)、神功皇后を補佐して朝鮮半島に出兵、帰国後忍熊王の反乱を制圧、皇太子を連れて敦賀の気比大神に詣でる(神功紀)、異母弟に謀反の讒言をされるが、探湯(くがたち)を行って疑いを晴らす(応神紀)など。
因幡国風土記逸文によれば、ここ稲葉山は武内宿禰終焉の地といわれ、三百六十余歳でこの地に下向、亀金(かめかね)岡で沓を残して姿を消したと伝承されている。(父子で仕えたとか、あるいは歴代天皇の在位年数が長く記述されているため、長寿になったという説もある)
境内左手奧に見える階段を上っていった。柵で囲われた「双履(そうり)の石」が社殿の裏の丘にあり、土に埋もれた石が二つ並んでいる。ちょうど履物を脱いで揃えたかたちで、そこがまるで異界への入り口であるかのような印象であった。伝説的な長寿の人は普通の死ではなく、ふっと掻き消えるような不思議な旅立ちがふさわしいと考えられたのであろう。また祭神を、神主を務めた伊福部氏の武牟口(たけむくち)命や、因幡国造の彦多都(ひこたつ)彦命とみる説もある。
これらの石は古墳の石といわれている。上にあったはずの石室はなく、何のかたちも残っていないのだが、古には塚が築かれていたようである。古墳はいわば黄泉に通じる回路でもあるので、かつて存在した塚の記憶がこうした言い伝えを生んだのであろう。
音もなく絹糸のような雨が降り始めた。周囲の杉林が緑を増して清々しく、植えられた道端の草花も生気を取り戻していくようで、煙るような雨の中をゆっくりと降りていった。神社を出て町を歩くと、コスモスが咲き乱れる堤防が見えたので行ってみた。なだらかに連なる山と流れゆく川、餌をついばむ水鳥、水辺に茂る青草、日本の原風景のような情景をしばらく眺めていた。
この地に因む百人一首の在原行平の歌を紹介しておこう。
立ち別れいなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば今帰り来む
在原行平は阿保親王(平城天皇の皇子)の子で、業平の兄にあたる。因幡国守に任命され、下向する際に詠んだ歌という。因幡では二年ほど過ごして帰京したようだ。またこの歌は、人や動物を呼び戻すおまじないとしても知られている。たとえば飼い猫がいなくなったとき、この歌を紙に書いて柱に貼るか、あるいは猫の皿の下に敷いておくと戻ってくるのだとか。歌にこもる呪力が期待されたのだろう。
ここには万葉歴史館があり、大伴家持を中心にした展示物があるという。大伴家持は大伴旅人の子で、万葉集最後を飾る歌をこの地で詠んでいる。
新(あらた)しき年のはじめの初春の 今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)
大伴家持は四十一歳のとき因幡守としてこの地に赴任、歌は翌年、新年の宴で披露されたという。赴任は政争に絡んでの左遷であったとも。家持は万葉集編纂の歌人として名高いが、大伴家は衰退しつつあったとはいえ軍事の名門であり、家持も生涯に何度も政争にかかわり、左遷と復帰を繰り返した。政争を生き延び、任地も六度に及んだ家持は、陸奥国で没したという。
いつの間にか雨は上がっていた。薄日がさし、川面がきらきらと光っている。家持も眺めたに違いないこの川は、この辺りでは国府川と呼ばれるらしい。バス停にたたずんでいると、どこからか金木犀の香りが漂ってきて、爽やかであった。