一六甲山麓を歩く一
保久良神社 蛙岩 会下山遺跡
越木岩神社 北山 神呪寺 甲山
一六甲山麓を歩く一
保久良神社 蛙岩 会下山遺跡
越木岩神社 北山 神呪寺 甲山
保久良神社
ずいぶんと長いサブタイトルになってしまった。一日でこのコースを歩いたわけではなくて、何回かに分けて探訪した。山に登って磐座や寺社、古代祭祀の跡を訪ねつつ、またあちこち寄り道もしながら気ままに散策した。
奇岩大岩が境内にあり、また「灘の一つ火」の伝承でも知られる、保久良(ほくら)神社にまず上がってみる。
神戸市東灘区、金鳥山への中腹に保久良山という前山があり、そこに保久良神社がある。昔はここで毎夜火をともし、沖を行く船にその位置を教えたと伝えられている。灯台のような役割も果たしていたのだろう。
阪急岡本駅の近くから見当をつけて坂道を上がっていくと、小さな辻に出た。そこにお地蔵さんを祀る祠があり、山の上への参道が通じていた。
住宅街を抜け、よく整備された山道を進んでいくと、次第に眺望が開けてきて、市街地と海が一望できる。そこがもう神社の入り口であった。神戸の海はもちろん淡路島、大阪湾や、遠く生駒山のほうまで見渡せた。
鳥居の前には、大きな石灯篭が一基、眼下に広がる海を見おろすように立っていた。その謂れなどを書いた説明文を読んでみる。
それによると、古くは社頭で篝火を焚いたとのこと、この火はご神火であったのだ。中世に入ると、灯台の役も兼ねるようになり、瀬戸内海を行く船の目印となって、灘の一つ火として知られるようになった。講があって、麓から火を点しに村人が通っていたそうだ。
暗い山の中腹に挙がる灯は、海上から見るとさぞ美しかったことだろう。船乗りはこの火に向って、思わず手を合わせたかもしれない。 鳥居をくぐり境内に入ってみる。神社の祭神は須佐之男命、大国主命、椎根津彦命などであった。
ここには多くの巨石奇岩が存在することでも知られている。社の建立時よりはるか昔から、岩石祭祀が行われていたという。古来、神が降臨する聖地とみなされていたのだろう。磐座の信仰があった根拠として、弥生時代の土器や銅戈などが岩陰から見つかっているそうだ。
境内を巡ると、まず目に付くのが、立岩と名づけられた大きな磐座である。しめ縄が張られており、それは苔むした三メートルほどの大岩であった。
名前のついた磐座はもう一つあり、これが中心になるものかと思われるが、神生石という。やはりしめ縄を巻いた巨岩で、フェンスに囲われて境内の左奥にあった。
よく見ようと、フェンス沿いに上がっていくと、やがて囲いが切れて、自由に本殿裏に入ることができるようになっている。入ってもよさそうなので、落ち葉を踏みしめ、神生石に近づいてみた。なるほど大きい。周囲を巡って、手で触れ、手のひらで古代の感触を確かめる。苔のついた岩の表面はひんやりと冷たかった。
フェンスの周囲の斜面を見回すと、実に多くの岩石が点在しており、岩と樹木が織りなす、不思議な光景を形づくっていた。岩は彫像のようであり、硬質な岩と柔らかい樹木が溶け合った世界である。鳥の声が聞こえ、時折どんぐりや落ち葉が降ってくるほかは、静かであった。
しばらく古代の森の雰囲気に浸っていたが、ふと見ると、その岩石群の中に、お手洗いの小屋が新設されているのに気がついた。小屋は周囲の岩の雰囲気にそぐわず、違和感が生じている。せめてもう少し岩から離れた位置に作っていれば、と古代遺跡の中に突如出現した水洗トイレを残念に思った。神生石や岩石群の近くであることが、引っかかるのである。その左手には梅園が広がっているので、都合がいい場所と考えたのであろうけれど・・・・。
社の北東部に行ってみる。落ち葉が厚く積もっていて、ところどころ斜めに筋が入り、不自然にえぐれていた。これはたぶん食べ物を漁ったイノシシの仕業であろう。落ちているかもしれない糞を踏まないよう気をつけて歩く。六甲はイノシシが多いので、至るところに「イノシシ注意」「えさをやらないで」の立て札が出ている。散策していた中年女性グループの人たちが足を止めて、
「私たちこの前来たとき、そこの梅園でお弁当を食べていたら、イノシシが出たのよ」と話しかけてきた。
「ええと、今日はいないようですね」
「まあ、よかった」
まるでお天気の話をするみたいに、道端で「本日のイノシシ情報」を交わした。
ここで今、イノシシには会いたくないなと思いつつ、社の東北側に回り込んでいく。そこは急斜面になっていて、驚くほどの巨岩が無造作にごろごろと投げ出されていた。
鋭角的な岩陰ができているところもある。そっと通り抜けるたび、まるで岩が落ちてきて挟まれそうな感覚に陥り緊張する。
環状列石とか、岩境とか、その程度の言葉なら、これまでにも何となく知っていた。ここが樋口清之氏の磐座祭祀の研究の対象になった場所なのだとも聞いていた。配列が人為的なところがあるというが、素人にはよくわからない。奇岩大岩が集まっているところと予想していたが、実はこれほどの迫力のものとは思っていなかったのだった。
頭上では大木が揺れ、野鳥が騒いでいる。暗い木立に囲まれて、岩と岩の間にたたずんで、谷の向こうを見ていると、時が静止し、はるか遠い時代に迷い込んだような妙な気分になった。社には参拝客は結構いるのだが、この岩群のほうまでやって来る人は少ないようだ。私は物好きな部類に入るのだろうか。
参拝客の歩く社や境内と、この岩だらけの世界とは、まるで目に見えない結界でも張ってあるかのように、人の流れが遮断されている。大岩群はひっそりと静まり返り、無言のうちに古の時を物語っている。まったく違う空気が流れているようで、ここが古代祭祀の場であることが急に強く意識された。長くいると岩に呪縛されてしまいそうで、不思議な怖さを伴って大岩が迫ってくる。ここは現代と隣り合う、紛れもない異空間だったのだ。知らなかっただけで、住宅街からすぐ手の届くところに、こんな異界が存在していた。そのことに気づくと、身が震えてくるようであった。
蛙岩
蛙岩は、魚屋道(ととやみち)の途中にある大岩である。
今日は蛙岩に挨拶にいくことにする。森稲荷神社に寄ってお参りして、その横を通って甲南女子大の学舎を左手に見て坂を上がっていく。道路が切れたところから、宮川に沿って上り始めた。入り口には魚屋道の表示板がみえる。昔、深江浜でとれた魚を背負い、商人が有馬まで山越えで運んだという苦労道なのである。
堰堤を越えて、山道を歩いていく。道は荒れていて、宮川とはいうもののほとんど水は流れておらず、枯葉と小石を踏みながら、かぼそい水路の跡をたどって上っていく。途中小さな水溜りがあり、その周辺の木々に小鳥が集まっていた。近づいても逃げず、群がっている。通り過ぎてもずっと小鳥の囀りが続いていた。野鳥が多いのだ。珍しい鳴き声に惹かれ、梢に目を凝らすが、なかなか姿がとらえられない。しばらく登っていくと、ふっと視界が開けた地点に出て、盛り上がった形の岩が見えてくる。それが蛙岩であった。
一周してみると数メートルはあるだろうか。確かにうずくまった蛙のようである。谷に向って手をついた形で、保久良神社を守るような具合に座っているとみえた。ちょっとひとこと、声をかけてみたくなるような親しみを感じる姿である。蛙くんが眺めているのは、谷の向こうの山々であるが、その目線の先をたどると、どうも西宮の山のようであった。そこにも仲間の蛙岩があるのかもしれない。
見晴らしがいい場所であった。海産物の重い荷を背負って上がってきた商人は、この蛙岩にもたれてちょっと一息入れたのではないだろうか。ここから有馬までの山越えの道のりを思ってみる。荷は傷みやすいから、時間との勝負である。いったい何時間で歩いたのだろう。
連なっている山並みを見ていると、遠く風吹岩の方角から、ヨーデルっぽい声が、こだまのように風に乗って流れてきた。裏返った高い声は、ヤッホーとかオーイといった山でよく耳にするお馴染みの呼び声よりも、はるかによく届くのだ。その人はどうも息の続く限り歌っているらしい。山男の雄叫びのような声を、面白いものに感じて、しばらく聞き入っていた。
蛙岩を後にして、同じ道を引き返していった。今年は雨が少なかったのか、途中干上がってしまった小さな池を見た。地面の土が細かくひび割れている。さっき小鳥が多かったところまで下って来ると、またしても鳥が集まっている。気になったので、今度は立ち止まって、木陰からそっと観察した。小鳥は次々降りていく。小さな水溜りでしきりに水を飲んでいる。行きに見たときにはわからなかったが、ここは小鳥の水場だったのだ。
会下山遺跡
会下山(えげのやま)遺跡を初めて知ったのは、中学生の時であった。蛙岩からはそう離れてはいない尾根上にある。市内の中学の裏山で、弥生時代の遺跡が発掘されて話題になっていた。発掘のきっかけとなる土器片を見つけたのは、中学生であったという。
遺跡には弥生時代の小屋が一棟復元されていたので、見学にいった。会下山の登山口に墓地があり、小さな観音堂と開けた空間があった。
何十年ぶりかで、その思い出の会下山に来てみると、観音堂の横にはイノシシよけの柵ができていて、山に登る人は自分で開けて入るようになっていた。草地は造成されたのか、なくなっていた。
指示通りに柵を閉めて、会下山に登っていく。ちょっと急だが、息が切れるほどでもなくて、上っていくと遺跡が見えた。そこはなだらかな地で、以前の記憶にある復元小屋とは様相が異なっていた。最初の小屋はもう失われてしまったのだろう。
その後ここでは順次発掘が進んだらしく、周辺には住居の柱跡などが新たに発見され排水設備や穀物倉、祭祀の場などもあったことが判明したらしい。新しく復元された高床式の小屋は、海の見える位置に建てられていた。穀物倉を模したものである、とあった。ねずみ返しの板の説明などを読む。
弥生時代の高地性集落として知られる会下山遺跡は、考古学関係の本にもよく写真が載っており、四十人ほどの小規模の集落であったらしい。なぜこのような不便な場所に住んでいたのか、ということについては、いくつか理由が考えられている。
よくいわれるのは、敵の襲来に備えて、山中に避難していたという説であろう。何らかの理由で、山に住むことを余儀なくされたという見かたである。ほかに、見知らぬ船が近づくなど、有事の際に、狼煙を上げるための設備という説、また低地に住む人たちとは違う集団の人たちだったとか、外来の部族であったという説、また山中で特別な祭祀を行っていた人たちの住居説、などである。
土器や遺構から、類推を重ねるしかないのだろう。でも弥生の人々が、ここで一時期生活していたのは間違いないことなのだ。煮炊きをした痕跡や、地面に埋められた祭祀の石などがそれを物語っている。それを思うと、時を超えてはるかな時代の人たちの心と、一瞬つながるような感じがしてくる。ここにたたずんでいると、中学生の頃、ここに来て、初めて古代遺跡というものに身近に触れたときの感慨が、懐かしく思い起こされてきた。
あの時弥生という時代に、確かにかすかに心が接触したのである。その後なぜか古代に関心が湧いて、古代史の本を読んだり、あちこち古墳や遺跡を訪ねるようになったのも、もしかしたらここが出発点であったのかもしれない。
越木岩神社
西宮市の越木岩神社から甲山へかけて歩いてみることにした。阪急夙川駅で乗り換えて次の苦楽園口で降り、コンビニでお弁当を購入、夙川の並木沿いに歩き始めた。夙川は桜の名所である。季節のよい時には多くの観光客がここを歩くのだろうけれど、今は冬枯れの中、散歩の人も少なく、木立は寒々として空に枝を差し広げている。
川にはコサギ、鴨の姿が見える。住宅街を抜けていく川だが、水はきれいで岸には水草が生い茂り風に揺れている。河川敷に降りて、水面を覗き込んでみると、フナだろうか、小さな魚が群れて泳いでいた。
飛び石を伝って川を渡り、さらに住宅地を通り抜けて、大岩を祀る越木岩神社への道を探す。地図があったので、神社はすぐに見つかった。
今は市街地では、社のすぐ際まで住宅が迫っていることが多く、神社の森は貴重な緑となっている。初めての土地で神社を探す時は、こんもりした森を目印にすると、見つけやすいのである。
地域の人に親しまれている神社のようだ。今は西宮市では北の戎さんとして知られているそうだ。参道の両脇には子供たちの絵が展示されてあった。
本殿裏に回っていくと、ご神体の大きな岩が鎮座していた。どっしりと地に座っているという感じである。高さ十メートル、周囲は四十メートルもあるとか。酒米や豆を蒸す古代の蒸し器である甑に形が似ていることから甑(こしき)岩と名づけられ、それが転じて越木岩となったらしい。
しみじみと見上げる。亀裂は何箇所にも入っていて、鋭く断ち割ったようにみえるところもあり、岩の隙間からは樹木が何本も育っていて、樹木を背負い苔のついた貫禄ある磐座であった。
巡ってみると、岩を一部切り取りかけて、新たに補修した箇所があった。説明によると、豊臣秀吉の大坂城築城の際、命によって池田氏が切り出していたところ、ノミを入れた岩の割れ目から、鶏鳴が聞こえ、白い煙が上がって石工が倒れ、切り出しは中止になったのだという。それは神の怒りと伝承されている。当時の人々はそういう現象を目の当たりに見て、畏れを感じたのだろう。
この地域には、地下に活断層があるとのことで、過去にその裂け目から水蒸気やガスが噴出したという記録も伝わっているという。それが何らかの形で反映されている話ではないか、とみる説もあるそうだ。
岩の大きさに圧倒されつつ一周し、左手に回ると樹木の間に小さな泉が一つ湧いていた。岩清水である。小鳥居で囲ってある。こんこんと湧いている水をしばらく見つめていた。古代にはこの辺りには社もなく、鳥居もなく、ただこの大岩と泉が深い森の中にひっそりとあったのだろう。そういう情景を心の中で思い描きつつ、神社を後にした。
北山
越木岩神社を出て、そのまま道を上がっていくと、川を隔てた目の前の山中に、多くの巨石、奇岩の類が見えているのに気づいた。緑の山肌に混じって、飛びぬけて大きな岩も肉眼で見える。地図で確かめると北山である。何しろ甑岩を見た直後であるので、興味を持ち、このまま北山に上がってみることにした。
山道を進んでいくと、いきなり大岩、奇岩の道であった。何も信仰の対象になっている越木岩神社の岩を削り取らなくても、ここまでやって来れば、お城の石垣用の岩は豊富にあったのだ。
分岐で北山植物園とあるほうに向かう。展望台らしいものが見えたので一気に上がって、そこで市街地を眺めながら昼食としばらく休憩をとる。
見回すと、あちこちに大岩が露出している。どなたかの本で、北山の中のある大岩群について、これらを人為的な配列とみなす説を読んだことがあったのを思い出した。大岩と大岩を結んでいくと、長方形になるとみて、夏至や冬至の日の出などの方向や天文に関連があるという独特の考え方であった。
それがどの岩に該当するのか、確かめてみたいとも思ったが、ここからではわかりにくく、ひょっとしてあれがそうかな、と気になる大岩は遠くに一つ二つ見えるものの、確信はない。そこへ行く道があるのかどうかもわからない。
再び歩き始める。展望台を下って、北山池に立ち寄り、静かな水と風景を眺めたあと、甲山方面へ向かって降りていく。さっきちょっと気になっていた大岩も、そこへ至る道がもし自然に見つかれば、行ってみようと思ったが、見つからないままに、上ったり下ったりの山道を進んでいった。
途中、一度だけ印象的な大岩が行く手に現れたので、思わず立ち止まった。一周して眺めると、何となく姿かたちが蛙に似ている。勝手にこれを北山の蛙岩と命名した。
保久良神社の近くのあの蛙岩の、目線の先はちょうど西宮市の山の方向であった。もしかしてこの蛙さんを見つめていたのでは、と想像してみる。大きさはちょうど釣り合っている。もっとも蛙どうしは体の向きが同じ方向で、互いに向かい合う形になっていたら、もっとよかったのだけれど。
あとは特に見るものはなくて、ひたすら下っていくうちに、山道が終わり、水をたたえた大きな北山貯水池の横に出た。これが西宮市の水源であろう。すぐ近くに緑のお椀を伏せたような形の甲山が見えている。貯水池の水面を鴨の群れがゆるやかに滑り、犬を連れて堤を散歩する人、双眼鏡を手に水辺の観察をする人、柔らかい冬の陽を浴びてベンチで休む人など、のどかな午後の光景であった。
神呪寺 甲山
神呪(かんのう)寺は甲(かぶと)山の中腹にある。北山貯水池を左手に見て通り過ぎ、歩いていくと、ほどなくお寺の正面に出た。甲山大師と親しまれている真言宗のお寺である。
石段を上がっていくと、突如ゴーンと大きな鐘の音が鳴り響いて、あまりのその音の大きさに驚愕し、思わず石段を一段踏み外しそうになった。参拝客が自由に撞いていいので、誰かが気合を入れ全力を振り絞ったらしい。近くで聞くとすごい迫力がある。
やっと動悸が治まって、お堂の前に進み、少々お賽銭をあげ、何気なく鰐口についている綱を引いて鳴らしたら、カーンと自分でもびっくりするような金属音が周囲に響いて、のけぞった。何かここは妙に力が入ってしまう寺院らしい。
お寺の右手に回っていくと、また別の人が鐘を鳴らしかけているのが目に入り、今度は身構えて聞いていると、さっきを凌ぐ大きな鐘の音が、周囲の空気を震わせてびりびりと鳴り響いた。山にはね返ってしばらく余韻が続く。
ここは思わず知らず予想以上の力が出てしまう、そういうパワーのみなぎる地なのではないだろうか。こんな山の中に、お大師さんのお寺が建つのも頷けるような気がしてくる。甲山が発する霊威であろう。
境内を見回していると、甲山への登山道があった。ここはもう山の中腹なので、たぶんあとひと息で山頂のはず、と早速登り始める。
よく整備された階段状の道である。今日は越木岩神社から北山をずっと歩いてきたので、実は疲れ気味であったが、ここまでやってきたのだから、登らないわけにはいかない。がんばって進んでいくうちに、ようやく山頂に着いた。どんな所かとみると、意外にもそこは平らな開けた空間であった。ちょっとした公園ぐらいの広さがあって、ベンチがいくつも置かれてある。残念ながら磐座らしいものは見当たらない。樹木が視界を遮っていて、山頂からの眺望はなかった。
古代には、甲山はその秀麗な形から、神の宿る山、神奈備山として人々の信仰の対象であったことだろう。山麓のすぐ近く上ケ原の辺り、かつて高隈原と呼ばれた地に、この甲山を遥拝する広田神社があったと伝えられている。創建は古く、神戸の生田神社や長田神社と同じく、神功皇后の船が進まなくなった折に、神託を受けて社を建て、天照大神を祀った事に由来するという。
広田神社は災害や戦禍のために、最初の地から二度遷ることを余儀なくされ、現在は甲山からは少し離れた大社町にある。西宮の地名になったという神社である。甲山とゆかりがある古社としてよりも、今は阪神タイガースの戦勝祈願をする神社として、よく知られているだろう。
公園風の装いになって、市民に親しまれているこの甲山山頂も、古代ではもしかしたら祭祀者以外、近づくことのできない聖域であったかもしれない。今はこうして手軽に誰でも楽しんで登れる山になっていることを思いつつ、甲山を後にした。