一古の聖地を歩く一
出石神社(但馬一宮) 玄武洞
一古の聖地を歩く一
出石神社(但馬一宮) 玄武洞
玄武洞と但馬一宮の出石神社を訪れることにした。
JR城崎温泉駅に降り立つと、駅前にレンタサイクルショップがあった。玄武洞まで自転車で約三十分とのことなので、早速借りて玄武洞を目指す。市内を抜け城崎大橋を渡り、円山川のゆったりした流れを見ながら走っていく。川にはコサギやアオサギが流れに浸かって餌を探している。
のどかな光景だが、円山川は台風や集中豪雨で時に堤防が決壊、流域に大きな被害をもたらすことで知られる暴れ川である。最近では平成16年の台風23号の時であったろうか、流域の田畑や住宅が泥の海と化している映像が記憶に新しい。けれども今は岸辺に青々と草が茂り、静かできれいな流れであった。
次第に道は坂になっていき自転車を降りて押していくと、ほどなく玄武洞の表示板が見えてきた。国の天然記念物に指定されているという。
玄武洞は絶壁・洞窟で、約160万年前の火山活動で噴出したマグマが冷却、固まる際に規則正しい不思議な割れ目を作り出した。板状摂理、柱状節理が見られる。波の浸食作用により約6000年前には現在のような岩塊が現れたという。その後人の手による採掘の結果、洞窟もできていったらしい。
江戸時代後期、儒学者がここを訪れ岩の形状を見て、中国古代の四霊獣に因んで玄武洞と名づけた。ここには玄武、青龍、朱雀、白虎の名を冠した洞がある。(玄武と青龍はかなり大きく、朱雀、白虎は小洞である)。明治になって日本の岩石名を定める際、この由来により岩は玄武岩と命名され、大正末期には、ここの岩石から地球の磁場の反転、つまり太古にはS極とN極の方向が逆であったことを学者が指摘、学術的にも貴重な場となっているそうだ。
石段を上っていくと、目の前に突如絶壁が現れた。カーテンの襞を寄せたような具合に、ミルフィーユ状に重なった岩がうねるような曲線をなしている。これが玄武洞で、近寄ると六角形の柱状節理がはっきりと見える。まるで大きな櫛で筋目模様をつけたかのように岩は波打っている。自然の織りなす奇異な造形美にしばらく見とれる。
洞窟といってもその奧行きは浅いようである。筋目の付いた岩が、緩やかな流れを型づくり、途切れてはまた別の層につながっていく。その連続性、非連続性が作り出す立体的な模様が面白く、目で追っているとなんとも不思議な感覚を呼び起こすのである。太古の昔、噴火によってここを溶岩が流れていったことの記憶、その痕跡に接しているという思いが心をよぎり、地球上に過ぎた気が遠くなるような長い時の経過を考えてしまう。
このような変わった岩に人は聖性を見るのだろうか、玄武洞と青龍洞の間には不動尊を祀るお堂があった。手を合わせてから隣の青龍洞に進み、目の前に聳え立つ絶壁と手前の池を眺める。ここも大きな広がりがあり、傾斜していく節理の流れるような線が仏像の衣の襞を思わせて美しい。
見ているうちに思い出したことがあった。実家の古い家族アルバムの中で、たぶんここと思われる古い写真を見たことがあったのだ。父が会社の旅行で撮ったらしいスナップ写真が何枚かあって、そのうちの一枚がまさにここなのだった。子供心に変な岩だなあと不思議に思いつつも、ここはどこ、と尋ねることもしないまま折に触れアルバムを開いて眺めていたのを覚えている。何かはわからなかったが、曲線を描く岩の印象は奇異なものとして妙に惹きつけられ心に残っていた。
今日たまたまここへやって来て、何十年ぶりかに記憶がよみがえり、子供の頃の小さな疑問が思いがけず解決をみたのであった。父が亡くなって時が経つのだが、当時の父もこの場に立ってしみじみと岩を眺めたのだろうか。アルバムの褪せたモノクロ写真が俄かに現実味を帯びてこの場に重なってくる。そういう思いで改めてまた青龍洞を見つめると、ここを訪れるのは初めてであるが、親しんだ懐かしい情景なのであった。
円山川の流れを見ながら同じ道を自転車で駅まで引き返す。志賀直哉ゆかりの城崎町文学館へも行ってみたかったが、もう閉館時間であったので諦めて自転車を返し、予約しておいた旅館に行った。城崎といえば温泉、浴衣に着替え下駄を借り、フロントで貰ったチケットで鴻の湯、御所の湯など近くにある五ケ所の外湯巡りを楽しんだのだが、さすがに最後のまんだら湯では少々のぼせ気味であった。
但馬一宮 出石神社
翌日、雨模様であったが、出石(いずし)へと向かうことにする。
JR豊岡駅に降り立つと、改札口の近くにかばんの自動販売機があった。豊岡はかばん製造と野生コウノトリの生息地で有名な町なのである。販売機には各種トートバッグがくるくると小さく丸められて円筒の容器に入っており、コーヒーやジュースのように販売されている。観光客には珍しいものと映り、立ち止まって眺める人や携帯で写す人もいる。コウノトリの写真をプリントしたものに人気があるらしく、そこだけ品切れになっていた。
駅前から路線バスで出石へと向かう。雨の中、バスは円山川を越えて田園風景の中を走り続ける。なだらかな山並みも見えてくる。出石神社は町の手前、鳥居前で降りて出石川沿いに十分ほど歩くのだが、都合で先に出石の町へ行くことにした。
ずっと傘を差したまま、町を見物する。今も残る武家屋敷跡や辰鼓楼という明治初期の時計台、山裾にある出石城跡などを見て回る。雨に濡れた緑が目に染みるようで、すがすがしい。城下町の佇まいは、質実な山間の小藩の生活の雰囲気を今も漂わせていた。
降りしきる雨にもかかわらず人通りは多く、ツアーの観光バスも次々やってくる。観光客の関心は名物の出石そばにあるようで、大通りに面した大きなそば屋は賑わっていた。出石は近年皿そばで有名になり、店も次第に増えて現在は五十店近いという。
観光案内所で、三店で三皿ずつ食べられるという巾着入りコインを購入、早速試してみることにした。刻みねぎや大根おろしの薬味とともに小皿に盛った黒いおそばが来るが、うずら卵でなく普通の卵がついているのが特徴であった。古そうな構えの店や割に新しい店、中心部にある店など三店に入ってみたが・・・・その中で美味しいと思ったのは「五萬石」という店であった。
出石神社を参拝するため路線バスで鳥居前まで戻っていく。バスを降り、円山川支流の出石川に沿ってしばらく歩く。雨に煙る田園風景の中で見回すと遠くに森が見えており、それが出石神社の森らしい。道は一本道で迷うことはなく、近づくと町の賑わいを離れた郊外に鎮座する静かなお社であった。
但馬一宮、祭神は天日矛(あめのひぼこ)と日矛が携えてきた八種の神宝(出石八前大神)である。古事記には、
・・・・かれその天の日矛の持ち渡り来つる物は、玉つ宝といひて、珠二貫(つら)、また浪振る比礼(ひれ)、浪切る比礼、風振る比礼、風切る比礼、また奧つ鏡、辺つ鏡、あわせて八種なり。こは伊豆志の八前の大神なり・・・・。(古事記 応神天皇)
とある。領巾、鏡など女性の持ち物、装身具が神宝として祀られているのである。天日矛は新羅の王子で、逃げた妻を追って日本にやって来たという。このいきさつについては、古事記(応神天皇の項)、書紀(垂仁紀)に記述がある。まず古事記のほうを見てみよう。
・・・・ある賎しい身分の女が、沼のほとりで眠っている時、ほとを差した太陽の光によって孕み、赤玉を生んだ。新羅の王子の日矛がその赤玉を手に入れて部屋に置くと、美女になったので妻とした。妻は種々の珍味を拵えて夫に勧めるので夫は次第に心が奢り、妻を罵ると妻は母の国に行くといって小船で帰ってしまった。夫は後を追ってきたが、難波の海の神が遮ったため、但馬の国に行って土地の女性を娶り子孫を残した・・・・。(古事記)
古事記では、逃げた妻と天日矛は日本で再会することはなかったように記述されている。難波の神が日矛の一行を見て遮ったとあるので、強行突破できなかったのであろうか。武装した異族の侵入と受け取られ、軍事的な衝突も起きたかもしれない。古事記の記述では、逃げた妻のほうは難波に留まり、そこで比売碁曾(ひめこそ)の社に祀られたとある。名は阿加流比売(あかるひめ)。つまりそこで亡くなって(あるいは殺されたのかもしれないが)祀られたという意味であろうか。何かそこには謎がありそうで、隠された事実があるようにも思われる。肝心の部分が省略され、話が飛んでいるような感じもする。神秘の赤玉というのも何なのか気になってくるが。夫のほうはそのまま北上して但馬に行き、新たな妻を得て、子孫を残すのである。
・・・・ここに天の日矛、その妻の遁れしことを聞きて、すなはち追ひ渡り来たりて、難波に到らむとする間(ほど)に、その渡の神塞(さ)えて入れざりき。かれ更に還りて多遅摩(たじま)の国に泊(は)てつ。すなはちその国に留まりて多遅摩の俣尾(またを)が女(むすめ)、名は前津見(まえつみ)に娶(あ)ひて生める子多遅摩母呂須久(たじまもろすく)・・・・。(古事記)
但馬に来て新しく得た妻の名は古事記と書紀では異なっている。その他細部のいきさつも異なるものの、同様の話が複数書紀には載っている。(一書にいわく・・・・)今度は書紀のほうを見てみよう。
・・・・新羅の王の子天日槍(ほこ)来帰(もうけ)り。もて来(きた)る物は、羽太(はふと)の玉一箇、足高の玉一箇、鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉一箇、出石の小刀一口、出石の鉾一枝(ひとつ)、日鏡(ひのかがみ)一面、熊の神籬(ひもろぎ)一具(ひとそなえ)あわせて七種あり。すなわち但馬の国に蔵めて常に神の物とす。(日本書紀 垂仁紀)
ここでは王子は逃げた妻を追ってきたという話と、弟に王位を譲り日本に来て天皇に八種の宝物を奉ったという話が載っていて、持ってきた宝物の中身も少しずつ違っている。古事記では、剣がなく玉と鏡と四枚の比礼(領巾)、つまり女性の持ち物や品々のようである。書紀では、領巾はなくて玉と剣と鏡などである。なお古事記と書記に同じ逸話が載っている場合、古事記の記述の方が古い形とされるそうだ。
領巾(ひれ)は女性のスカーフ、ストールのようなものという。海上で船を操るときの、風や波に関する呪具であろうか。鏡や剣、玉は王権の象徴といえるもので、天日槍が亡くなった後も、神秘な宝物として社に祀られたと思われる。これら呪具は重要なものとみなされ大事に扱われたようである。
書紀にはまた天皇が天日槍の子孫清彦を召し、これら神宝を献上させたという記述もみえる。いわゆる服属儀礼であるが、そのとき清彦は大切な刀子(とうす)を渡すのが嫌で懐に隠したものの、見つかって献上せざるをえなくなった。けれども後に刀子だけは納められた宝府(みくら)から「刀子自ずからに失せぬ」という事態になり、刀はいったん清彦の家に現れて再び消え「おのずからに淡路島に至れり」という不思議を起こした。淡路島は当初天皇が日槍に住むことを許そうとした地であった。島人は刀子を神と思って祠に祀り、天皇はそれを聞いてもう刀子を求められなかったとある。
(日本書紀 垂仁紀)
書紀では、天日槍は初め播磨の宍粟邑に滞在、その知らせを受けて大和から天皇の重臣がやって来て、天日槍に渡来の目的や身分を問いただしたとある。天皇は宍粟邑と淡路島に土地を与えて住まわせようとしたが、天日槍は他の土地を巡ってみることを希望し、許可を得て宇治川を遡って近江にも滞在し、若狭を経て最終的に但馬の地にとどまり、出嶋(いずし)の太耳の女(むすめ)麻多烏(またを)を妻として子をなしたという。名前が挙がっている滞在地、近江にはその痕跡もあるそうで(鏡村など)、社伝によれば天日槍は定住した但馬地方の開拓にも力を入れたと伝承されている。
ここで播磨国風土記を少し見てみよう。
・・・・天日槍(ぼこ)命、韓国(からくに)より度(わた)り来て、宿処(やどり)を葦原(あしはら)の志挙乎(しこを)の命に乞ひていはく、「汝(なんじ)は国主(くにのきみ)たり。吾が宿る所を得まく欲(ほ)りす」・・・・(播磨国風土記 揖保の郡)
天日槍が海上からやって来て、土地の王に向かって宿を求めたというのである。葦原志挙乎(あしはらしこを)は海中を住居として許したが、日槍は海水を掻き回してできた島に宿り、その盛んな力に驚いた志挙乎は「先に国を占めむと欲(おも)ひ、巡り上(のぼ)りて粒(いひぼ)丘に到りて」焦って食事をしたのでご飯粒が零(こぼ)れ落ち、よってそこを粒丘と名づけた、という地名説話へと続いていく。
その後は二つの勢力が戦闘に入ったような記述も見える。
奪谷(うばいだに)。葦原の志許乎(しこを)の命と天日槍の命と二はしらの神、この谷を相奪ひたまひき。故(か)れ奪谷(うばひだに)といふ。
(播磨国風土記 宍禾の郡)
そして戦いの結果はこのようであった。
葦原の志許乎の命、天日槍の命、黒土の志に嵩(だけ)に到りまし、おのおの黒葛(かづら)三条(かた)を以ちて、み足に着けて投げたまひき。葦原の志許乎の命の黒葛は一条は但馬の気多の郡に落ち、一条は夜夫(やぶ)の郡に落ち、一条はこの村に落ちき。
天日槍の命の黒葛は皆但馬の国に落ちき。かれ但馬の伊豆志の地を占めて在(いま)しき。 (播磨国風土記 宍禾の郡)
土地の領有を巡る戦いの末、土地の神霊の裁定である「うけひ」による決着をつけたようである。山上から三本の葛を投げ、それぞれ葛が落ちた地点が神意であるので、葦原志許乎が宍粟郡のほうを取り、天日槍は但馬ということになったようだ。
最初に着いた播磨の国でも先住の土地の王とこれだけ揉めているのである。移動していった土地、その行く先々でおそらくは同様の悶着が起きたことであろう。土地にはそれぞれ先住民がいるのだから、外来集団が来るのはさぞ脅威であったと思われる。住む土地を巡って平和的に事が運ぶとは限らない。
若狭を経た日矛軍団の最終的な定住地は、但馬であった。日矛は但馬の地で土地の太耳の娘を娶り、開拓に尽力したと伝承されている。土地の首長の娘を妻にしたのは、表面的には異民族間の親睦といえるが、おそらく両勢力の戦闘終結後の和睦の形であり、負けたほうが土地を明け渡し娘も送ったのであろう。人質として差し出したとみることもできる。征服者に対するこのような服属儀礼は古代ではよくみられることである。
古の但馬の地で天日矛は先住民の王と戦った末に土地や妻を獲得、以後但馬地方に一族は根を下ろし勢力を伸張していったのだと思われる。
天日矛の子孫には、垂仁天皇の家臣となって海外に派遣され時じくの香(かぐ)の木の実を持ち帰った田道間守(たじまもり・語学力を買われたのかもしれないと思う)、神功皇后の母となった葛城の高額比売(たかぬかひめ)の名もみえる。
日矛一族が住みついた地は当時湿地帯であったかもしれない。治水には苦労したのではないだろうか。但馬を流れ下って日本海に注ぐ円山川、またその支流の出石川は、今でも氾濫を起こしている。日矛の集団が川の流域に住んで田を作ろうと試みたのであれば、それはまた年ごとに襲ってくる恐ろしい洪水との闘いでもあったことだろう。
社殿は広く、参道は多くの灯籠が整然と立ち並び、神門は赤く塗られて美しい。小雨の中、社殿に進むが、ひっそりとした林には人一人いない。社殿の右手奧には天日矛の陵墓と伝えられる小高くなった地があり、そこは禁足地となっていた。入れば祟りがあるそうだ。少し柵の周囲を巡ってみたが、古い樹木が生い茂り、雨のせいか暗い雰囲気であった。祟るなどと聞くと怖いものも感じられ、それ以上近寄っていくのはためらわれた。
境内摂社には夢見稲荷社や、天日矛の妻となった先住民の娘麻多烏(またを)を祀る祠もあった。順に見て回りしばらくたたずんでから社を後にする。天日矛とその妻が眠り、日矛が携えてきた異国の宝物を今も神宝として祀る出石神社は、夕闇が近づく田園風景の中で、静かな雨に打たれ続けていた。