吉備津神社(備後一宮)
吉備津神社(備後一宮)
各地にある一宮を訪れている。町なかの賑やかな社、山麓や丘の中腹にあって緑の美しい社、山頂でひっそりとしずまる奧宮や磐座、それぞれに趣も雰囲気も異なっているのが興味深い。参拝といっても御朱印帳は持ったことがなく、(お金を惜しんでいうのではないのだが)本殿に上っての参拝もあまり気が進まず、御札や御守り、おみくじもたまに、という程度、できるだけ写真は撮ることにしているのだが、うっかりしていて忘れることもあるので、そうなるともう記憶だけが頼りである。
(結界化されていなければ)できるだけ神体山や山中の奧宮、磐座、滝などを訪ねて季節の自然に親しむようにしている。そういう特別な場所に行けなくても、境内の木陰や池のほとりなどでゆっくり座り込むひとときがあれば、それも嬉しい。魔法瓶に入れてきたお茶を飲んで、時折水面に魚がはねるのを眺め、遠くの木立で鳴いている山鳩の声に耳を傾けたりしながら、バスの時間までそこでぼうっとして過ごすのである。
備後一宮 吉備津神社
福山で福塩線に乗り換え、三十分ほど乗ると新市駅に着く。そこから徒歩で吉備津神社へと向かった。舗装道路を約二キロ進むと、左手山側に神社の門が見えてくる。ここでは一宮は「いっきゅうさん」と呼ばれているのだとか。
石段を上り隋身門をくぐっていく。正面にある社殿はどちらかというと仏殿風の構えであった。由緒によれば、創建は八〇六年、備中の吉備津神社から勧請されたと伝えられている。火災で何度か焼失し、現在の社殿は初代福山藩主による造営という。
祭神は大吉備津彦命(亦の名は五十狭芹彦命、いさせりびこのみこと)、孝霊天皇皇子である。書紀によれば、崇神天皇の御代、四道将軍が各地へ派遣され、倭にまつろはぬ人々を平定、討伐していった。北陸道には大彦命、東海道には武渟川別命(たけぬなかはわけのみこと)、丹波には丹波道主命(たにはのちぬしのみこと)、西道(山陽道)には吉備津彦命が、それぞれ派遣されたという。
・・・・大彦命を以て北陸(くぬがのみち)に遣(つかは)す。武渟川別(たけぬなかはわけ)をもて東海(うみつみち)に遣す。吉備津彦をもて西道(にしのみち)に遣(つかは)す。丹波道主命(たにはのちぬしのみこと)をもて丹波(たには)に遣す。よりて詔(みことのり)してのたまはく、「もし教(のり)を受けざる者あらば、すなはち兵(いくさ)を挙げて伐(う)て」(日本書紀 崇神記)
古事記によれば、大吉備津彦と異母弟の若建(わかたけ)吉備津彦は、兵を率いて播磨から吉備に入ったが、その際、現在の兵庫県加古川市で忌瓶(酒瓶)を地に据えて神を祀り祈願した後吉備に入り、平定したという。
・・・・大吉備津日子の命と若建吉備津日子の命とは、二柱相副(たぐ)はして針間(はりま)の氷の河の前(さき)に忌瓶(いはひべ)を居(す)ゑて、針間を道の口として、吉備の国を言(こと)向け和(やは)したまひき。(古事記 孝霊天皇)
倭の皇子、五十狭芹彦命は吉備を平定して吉備津彦を名乗り、吉備の中山に宮を建てて住み統治したとされる。備中の吉備津神社の伝承によると、古に吉備を支配していた王で温羅(うら)という者がおり(記紀にはこの名は出ていない)、皇子軍が激戦の末に滅ぼしたのだが、温羅は首をはねられても唸り続け、首を埋められてもなお吼えることをやめないので、祟りをおそれ御竈殿で占いの神として鎮め、その霊を祀るようになった。
この話は、桃太郎の鬼退治の原型ともいわれており、大吉備津彦が桃太郎、温羅が鬼ということになる。子ども向けの話なので、殺された温羅が呪ったという部分は消されているし、また弥生時代なのに桃太郎がちょんまげ姿で陣羽織を着ているなど、時代がそぐわないところもあるが・・・・。桃太郎伝説は各地に存在するが、岡山発祥説が最も有力とされているという。
またこの話は備中の吉備津神社の吉備津の釜、鳴釜神事の由来としても知られ、梁塵秘抄にも「一品聖霊吉備津宮・・・・艮(うしとら)みさきはおそろしや」とうたわれ、上田秋成「雨月物語・吉備津の釜」の題材にもなった。
温羅は暴虐の王のため皇子が来て討伐したとされている。吉備は、古代では多くの用途を持つ水銀朱(呪術に用いる、防腐作用を持つ、古墳内に撒く、神鏡を磨く)、の産地であり、また吉備の豊富な鉄資源や製鉄技術にも倭側が関心を持っていた、などともいわれ、吉備討伐がおこなわれた背景には、重要な鉱物資源の獲得というような事情もあったようである。
古代の闇や神秘が感じられる備中一宮の吉備津神社には、戦いにまつわるいろいろな伝承も残されているがまた謎も多い。(紀行「吉備津神社と吉備津の釜」の項、またエッセイ「鬼神の声」でもこのことについて書いている)
備後一宮の吉備津彦神社には、そのような暗いものをじかに感じさせる古代の伝承はみられないようである。この神社は節分の夜に「ほら吹き神事」という「放談会」が開かれることで知られているという。お酒も用意され参加者が焚き火を囲んで自由にほら話を披露し、楽しむというものであるらしい。
何はともあれ、吉備の地の開拓の神、大吉備津彦を祭神とする神社がこの近辺の一宮として備前、備中、備後と三社もあるので(岡山に二社、ここ広島に一社)、訪れるほうは少々記憶が錯綜して混乱気味なのであった。古に倭の勢力が増大し、大吉備津彦がこの地域を平定したということが、同名の神社、同じ祭神名というかたちで今も残っていることを改めて思う。
吉備国に邪馬台国があったという説を聞いたことがある。その根拠の一つは大吉備津彦の姉に倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)という霊能の人がいて(大和の箸墓古墳に葬られたとされる)、一族の人や弟たちと吉備に来て住み、ともに統治したというのである。男たちが戦や政事をおこない、百襲姫が祭祀を受け持ったのではないかという説である。この女性を卑弥呼とみる説があるので、そうなると桃太郎と卑弥呼が姉弟だったということになり、まさに最強の組み合わせということになるだろう。
また岡山県東部には浦間茶臼山古墳という大和の箸墓のちょうど二分の一という相似形の前方後円墳があるそうで、箸墓と同時代のものとされているそうだ。邪馬台国候補地も各地にあるが、これらのことから吉備邪馬台国説も生じたらしい。
備前の吉備津彦神社、備中の吉備津神社では、一族の人たちとともに倭迹迹日百襲姫も相殿で祀られているが、ここ備後の吉備津神社では、百襲姫の名は相殿の神々の中には入っていないようであった。ちなみに百襲姫を主祭神とする神社には、讃岐一宮の田村神社があり、讃岐にも同様の桃太郎伝説(高松、女木島)があり、讃岐邪馬台国説もあるので、興味深いことである。ちなみに田村神社の由緒では、倭迹迹日百襲姫が弟の吉備津彦とともに讃岐にくだってきて、統治したとあった。
主祭神を同じくする備前、備中、備後の一宮をくらべてみると、備前の吉備津彦神社とここは共通するものが感じられる。備前の吉備津彦神社は夏至の日の朝、太陽が鳥居の正面から昇り、社殿の御鏡に入ることから別名「朝日の宮」と呼ばれているが、ここ備後の吉備津神社にも、調査すれば太陽祭祀の痕跡が見つかるかもしれない。備中の吉備津神社のみは社殿が艮の方角を向いているせいか雰囲気が二社とは異なり、ただならぬものの気配も重く漂っているようであった。
備後の吉備津神社では、境内でちょうど写真展が開催されていて、賑わっていた。見ていくと神社境内の祠などを写したものが多くあり、ちょっと関心を持ったので関係者らしいかたに質問してみた。すると丁寧に答えてくださった上、さらに通りかかった神社のかたを呼び止め、再度詳しく説明をしていただくことになって恐縮した。神社と方位との関係など興味深いお話であった。
神社を出て駅までの直線道路をまた歩いて引き返した。うまくバスを見つけられなかったのである。車の行き交う道路は、行きよりも距離が長く感じられて疲労した。福山市に戻る電車の中で、何気なくポケットをさぐると、小さな包みが手に触れた。取り出してみると和菓子であった。さっき写真展で説明してくれたかたが、帰るときに会場にあったお菓子をくださったのであった。地元銘菓をありがたくいただきながら、窓の外に広がるのどかな風景を眺め、備後一宮の境内の様子や出会った人たちについて、思いを巡らせていた。