芥川龍之介
「芋粥」(新潮文庫)
芥川龍之介
「芋粥」(新潮文庫)
芥川龍之介は明治二十五年東京生まれ。十一歳のときに母が亡くなり、叔父である芥川家の養子となった。東京帝大に進んで英文学を専攻し、同人誌に「羅生門」などの短編を発表、友人の紹介で夏目漱石の門下に入った。「鼻」は漱石に絶賛されている。卒業後は海軍で英語教師として教鞭をとりつつ、内外の古典や文献から着想を得て創作を続け、評価を得た。軍人の娘と結婚し、三人の男児(長男比呂志、次男多加志は戦死、三男也寸志)をもうけている。教職を辞して新聞記者の職を得、中国を訪れて交流し、紀行文も書いた。谷崎潤一郎とは文芸に関する論争(評論「文芸的な、余りに文芸的な」)を続け、小説の筋の面白さを重視する谷崎に対し、筋のない小説はもっとも詩に近い純粋なものとして反論を試みた。芥川は優れた短編を数多く書いたが、晩年は病を抱えさまざまな症状に苦しんでいたようである。「歯車」には病状と思われる描写が見られる。薬物によって命を絶った。享年三十六。
芥川の多くの短編の中で、秀作として十篇ほど挙げるとすれば、何が並ぶであろう。
「羅生門」「藪の中」「地獄変」「偸盗」「鼻」「芋粥」「蜘蛛の糸」「蜜柑」「杜子春」「雛」「トロッコ」「アグニの神」「魔術」「俊寛」「奉教人の死」「手巾」「河童」「或る阿呆の一生」「歯車」・・・・好みにもよるだろうが、だいたいこの辺りからベスト10が選ばれるのではないだろうか。
「今昔物語集」や「宇治拾遺物語」の説話を下敷きとしたものが多いが、「古事記」からとったという「老いたる素戔嗚尊」も。「羅生門」「芋粥」「鼻」「藪の中」「地獄変」「偸盗」「六の宮の姫君」などは王朝ものと呼ばれている。古い説話を蘇らせ、新しい切り口で文芸的に展開したという点が、発表当時斬新なものとして受けとめられたようである。
その一方で、自伝的な「大道寺信輔の半生」は未完に終わったし、長編として試みた「邪宗門」も未完であった。怪談風の「妖婆」も話が長すぎ失敗作であった。「妖婆」と似通った筋の「アグニの神」は児童向きの短い作品に仕上げたことで、読者を獲得したようである。また芥川自身が失敗作と言いきっている「偸盗」は、「羅生門」の姉妹編として書かれたといわれているそうだが、本人が言うほど、安物の絵双紙ぽくはないとされており、今日でも芥川の代表作の一つとしてよく読まれている。
作品数が多いので、さまざまな出来のものが混在しているということであろう。古典や外国ものなど、異世界を舞台にした短編ほど成功率が高かったが、そうでないものは難しかったということであろうか。創作の源泉となる文献、古典を渉猟し、自分と感性の合うものを吟味したようである。作品化するものを見つけ出すことも、また作家としての才能だったのだろう。
代表作のひとつ「芋粥」の世界を見てゆくことにしよう。
「芋粥」あらすじ
気弱で控え目、風采も上らず、周囲からいつも軽んじられている五位は、正月の宴の最後に出される芋粥が好物で、いつかこれを飽きるまで食べてみたいものだと思っていた。その願いを宴席でふと漏らしたのを利仁という男が聞き、ご馳走しようと皆の前で申し出た。数日後、利仁は入湯という名目で家まで誘いにやって来て、用意した馬に五位を乗せて出発した。東山辺りでの入浴かと思わせたが、山科も過ぎてしまい、三井寺で昼食となり、どこへ連れてゆかれるのかと不安がる五位に対し、利仁は自分の住まいのある敦賀まで、と答えた。驚き狼狽する五位を見かねて、利仁は弓矢で武装し、安心させて荒野を進むのだった。
利仁は馬を駆って坂本の野で狐を追い、捕まえた狐に対し「明朝迎えに来るように」と家人へのことづけを命じる。翌朝、家から家来たちが命令どおり馬を引いて高島まで出迎えにやって来た。奥方が正気を失って狐憑き状態に陥り、命令を伝えたのだった。
利仁の家に着くと、客人のために大量の山の芋が用意され、召使たちが動員され大釜で粥がつくられていった。五位は長年の望みがこんなかたちであっけなく叶うことに心がついてゆけず、見ただけで食欲を失い、勧められて苦痛すら覚え、出された一椀の芋粥も飲み干すことができず、持て余すのであった。
利仁に芋粥をさらに勧められて困り果てる五位。そこへ狐がふいに庭に現れて、一座の人々の注意を引いた。利仁に命じられて用をつとめた狐は、その場で芋粥のお相伴にあずかるのだった。・・・・
原典は「今昔物語集」巻二十六第十七、「利仁の将軍、若き時京より敦賀へ五位を將(い)て行きたる語(こと)」である。
こちらのほうも少し見てみよう。
利仁は、敦賀の豪徳の家の入り聟で、ふだんは敦賀に住んでおり、都で仕えている主が催した正月の宴席で、ふと耳にした「哀れ、いかで芋粥に飽かむ」という言葉から五位の望みを知り、饗応を申し出る。利仁は五位を馬で敦賀まで連れ帰り、自宅で芋粥をご馳走しようとする。利仁は途中坂本で捕まえた狐に、「必ず今日の内に行き着きて云え」と命じ、命令どおり家来が馬で迎えにやって来る。
利仁の館の庭では、客人のために芋粥の調理が始まっていった。おびただしい「木の様なる物」つまり大きな山の芋が蓆(むしろ)四、五枚の上に高く積み上げられ、大釜数個が据えられて、使用人たちが、水のように見える「味煎(みせん)」を注ぎいれて沸かし、山芋を刀で削ってなで斬りにして煮てゆくのである。この大がかりな炊き出しの騒ぎの様子を垣間見て、五位は食欲を失くしてしまうのであった。
五位が食膳に出された芋粥を前にして当惑し「一盛りだにえ食はで、飽きにたり」という場面も、庭にあらわれた狐を見て、利仁が「狐にもの食わせよ」という流れも、芥川はほぼそのままなぞっている。
違っているのは、敦賀に着いたその晩から、五位は夜伽の女性のもてなしも受け、利仁の家で楽しくひと月過ごした、という箇所で、この部分は物語の展開上不要と思ったのか、芥川の「芋粥」では省かれている。原典では利仁の豪胆な性格や、地方の裕福な家の羽振りの良さ、大盤振る舞いの様子が描きだされる。
部下にあたる若い利仁が、年長の上司の五位を敦賀の自宅へ招いて饗応する。ことの始まりは正月の酒席であった。ほんの冗談のように五位が漏らしたひとことが、利仁の心づかいにより現実のものとなってゆく。まるで瓢箪から駒のような話で、五位は芋粥をご馳走になっただけでなく、一月の間敦賀に滞在して手厚くもてなされ、上等の衣服も用意してもらい、綾、絹、綿などを皮子に詰めたものを土産の品に、さらに良い馬と牛までつけてもらって、京に戻ったのであった。思いがけない幸運に恵まれた人の「宿報」の話として「今昔物語」に載っている。
芥川は「今昔物語」のこの話に、独自の解釈を織り込んでいった。主人公の五位が楽しみにしていたのは、正月の宴の最後に出る一椀の甘い芋粥であった。それは仕えている主の摂政藤原基経が、新年に客を招いて催す大饗(おおみあえ)の残肴であった。五位は芋粥が好物であったが、それは新年の宴に出されるものであるゆえに、格別に味わい深いものと感じられていたのである。新春をことほぐ宴、その晴れがましい雰囲気の中で、最後にほんのちょっぴりありがたく頂くものであったからこそ、五位には楽しみであり、価値があってよかったのである・・・・。
当時はまだ大饗(おおみあえ)の残り物を、路上の下人たちに与えるという習慣(取り食み、とりばみ)がなかったので、残肴は邸内の侍たちがもらって宴会で食べていたという。残肴といっても、権勢を誇る藤原家が新年の客(天皇や高位の人たち)のために用意したものであるから、美味しい料理も色々あったのだろう。五位は、その中で特に芋粥を好み、毎年その味わいが待たれるのであった。そして芋粥を飽きるほど食べてみたい、とひそかに思っていたのだが、いざその望みが利仁の招待によって思いがけず実現しそうになると、充足感ではなく別の感情が起きてくる。それは相反する矛盾した思いであった。長年の願い事も、現実にあっさり手に入ってしまうと、空しくなって戸惑うことがあるという、人の複雑で屈折した心理の一端を、芥川は古典を借りて巧みに表現してみせたのである。五位が真に求めていたのは、表面的には心ゆくまで芋粥を味わって満たされてみたいことであったが、深層的には、そうではなかったということであろうか。
芥川の「芋粥」では、五位はくたびれた古着を身につけた、気弱な男として描かれている。往来で遊ぶ町の子どもたちにまで馬鹿にされているくらいである。そんな五位ではあるが、心奥ではひそかに上流生活への羨望や憧れを持っていたらしい。芋粥に仮託された五位の思いは、そこにあったということだろう。芋粥が飽食できるような高い地位や身分。それが意識の底にある隠された真の願望であった。けれども五位は実際には自分の運命を動かすことはできず、今以上の出世や幸運も覚つかない・・・・。五位という官位は実際にはそんなに低い身分ではないそうだが、五位にとっては限界と感じられたのだろう。五位はこのまま生きていくであろう自分の位置を身に染みて知っており、そういう心の嘆きは、芋粥をすすりながら「何時になったらこれに飽ける事かのう」とうっかり言葉に出て、それをまた周囲の人に聞かれて、笑いの種や憐憫の対象となってしまうのである。
芋粥を飽きるほど食べてみたい、それは大人が人前で言葉に出すものとしては、あまりにも子どもっぽくて恥ずかしい内容で、酒席での冗談かとも思うが、でもそのことだけに関していうなら、物理的にかなえられない願い事ではなかったのである。
この時代の芋粥とは、どういうものであったろうか。それは山の芋を薄く切って甘葛(あまづら)の汁で「さらさらと煮返したもの」であって、お米を入れて炊いたものではないという。つまり食後に食べる甘味のことであった。現代では芋粥といえば、さつま芋を刻んで炊いたお粥のことであるが、当時の芋粥とは、ご飯ものではなく、甘い汁に浸った山芋の甘煮、デザートのようなものであったという。
甘味料に使った甘葛(あまづら)について調べてみると、それには蔦(つた)と甘茶蔓(あまちゃづる)の二説あるという。蔦(つた)の幹を切ると、樹液が滴るのでこれを採取して集め、煮詰めると保存の利く甘味料になるそうである。また甘茶蔓(あまちゃづる)の茎、葉を干して煎じたものという説もある。甘茶蔓のほうは甘味が薄いそうである。今昔物語に出てくる甘味料の味煎(みせん)が、どちらであったのかは不明だが、蔦(つた)のほうで考えてみることにする。
蔦(つた)の切り口から滴る樹液は、はじめ水のように透明であるが、煮ると飴色になり、とろみも出て上品な甘さになるという。この汁のことを味煎(みせん)というそうだ。メープルシロップのようなものであろうか。樹液を採るのもいつでも可能なわけではなくて、時季が決まっていたそうである。
夏に氷室から取り寄せた削り氷(ひ)に甘葛(あまづら)をかけて食べた、と「枕草子」にも出ているように、砂糖のなかった時代、甘党の人たちにとってこの味は楽しみであったろう。煮込み汁の甘葛味煎(あまづらみせん)を作るのにも手間がかかったに違いなく、甘い食べものは日常的に人々の口に入るものではなかったから、芋粥も格式高い大饗の最後に添える一品として用いられたのであろう。
芥川による人物造形をみてみよう。五位は小心者で冴えない中年男として描かれているが、利仁のほうは、気づかいもできる豪胆な若者として登場し、二人の性格は対比をなしている。利仁は越前の国の裕福な家の聟で、地方では豪勢な暮らしをしており、暮らし向きのほうで見ても、二人は対照的に描かれている。それに都の宴会では芋粥が高級感のある一品として登場するのに比べ、敦賀ではそうでもなくて、山の芋も近辺で豊富に採れる食材、甘味料のほうも貴重品扱いではなく、たっぷり注いで使っているような印象に描かれているのも、対比となっていて面白い。
舞台地をみてみよう。物語の前半は京で、敦賀への道中へと続き、最後は敦賀の家である。従者二人を伴った利仁が、入湯を口実にして五位を家から誘い出し、まず東山へと向かう。粟田口を通り、山科を過ぎて、三井寺でお昼となる。三津の浜(比叡山の近く)で坂本の狐を捕まえ、高島までの迎えを言いつける。どこかで野宿し、高島からは迎えの新しい馬に乗り、かなり険しいと思われる山越えをして、夕刻には敦賀へと着くのである。野宿して一泊二日の行程、当時は山賊の心配もしなければならない旅だったのであろう。この時代の古の北陸道は、京から琵琶湖西側(今の湖西線)の道を通り、高島のマキノ町辺りから国境を目指し、峠を越えてゆく経路であったろうか。現在京都から敦賀へ向かうとすれば、特急「サンダーバード」を利用して約一時間というところである。
利仁が野狐を捕まえて、自在に動かしてみせるのも興味深い。狐がこんな風に人に言いつけられて働くとは・・・・比叡山の坂本の狐だったので特別だったということであろうか。野の獣も従えてみせる利仁の強さ、特異な能力をあらわす逸話として描かれているのだろうけれど、人と狐の関係をみる上で興味深い。少し話がそれるが、たしか「遠野物語」(柳田国男)にも狐や狸の話がいくつか載っていて、それは夜道でいたずらして人を化かし、騙して食べ物をかすめ取り、また何かの仕返しをする話が多かったと思うが、平安時代はともかくとして、明治時代に入っても、人と山野に棲む動物の、霊的であやしい関係が続いていたというのである。そして、その狐使役の様相が、今昔物語の中で生き生きと語られていることも、興味深いのであった。
芥川のほかの作品について
芥川龍之介の作品に初めて触れたのは、小学生のときで「蜘蛛の糸」であった。教科書か子ども向きの本に載っていたのだと思う。ほかには「芋粥」「鼻」「舞踏会」「杜子春」「蜜柑」「トロッコ」「アグニの神」「雛」などを読んだことが印象に残っている。何度もページを繰った記憶がある。
「芋粥」と「鼻」は主人公の心理が共通しており、「アグニの神」と「妖婆」も神おろしという同じ趣向の作品、「羅生門」と「偸盗」も雰囲気が似通い、「杜子春」と「魔術」も最後でしくじって超能力を得られず、現実に戻るという仕掛けが同じである。探せばほかにも同様の類似は見つかるであろう。
芥川作品を読み進むうちに「地獄変」に出会って魅了された。その続篇として「邪宗門」があるが、これは続けるのに困難が生じたものか未完に終わっている。筆を進める上で限界を感じたようである。芥川は感覚や閃きの力で引き込んで読ませる短編は得意だったが、長いものになると苦手だったということだったのだろうか。芥川が典拠とした古典作品はどれも簡潔で短いものが多く、その短い文章を想像で補って独自にふくらませ、近代的な心理描写を加えて作品に仕上げてゆく手法が性に合い、完成度の高いものを生み出していったということであろうか。
「ビアス短編集」の項でも触れているので詳細は省くが、「藪の中」も忘れがたい作品であった。ある事件が起きて、関係者が順に証言してゆき、最後に死者が霊媒を通して真相を語る、という枠組みは、アンブローズ・ビアスの「月明かりの道」と「藪の中」を読み比べたとき、類似は明らかだと思うが、芥川の作品のほうが深くて考えさせられる。芥川は短編の名手といわれたビアスの多くの作品も読み込み、その手法を研究したのではないかと思う。
ほかには「老いたる素戔嗚尊」も好きで、古代的な雰囲気を味わいたくなると、今も読み返すことがある。これは「古事記」から材をとっており、娘を手放したくない父親が奮闘する姿が描きだされる。結局若い二人を祝福して見送るのだが、天照大神の呼称を避けて「故郷の女君」「大ひるめのむち」と言い換えるなど、色々と配慮はしているようである。古の神々を小説の題材に使うのには、慎重にならざるを得なかったのかもしれない。「古事記」や「日本書紀」からもっと着想を得て、多く作品化してほしかったと思う。
「葱」ははじめ読んだときは印象が薄かったが、登場する男女が今東光と宇野千代をモデルにしていると知り、改めて読み直してみた。精一杯お洒落して男性と待ち合わせた女性が、八百屋で安い葱を見て二束も衝動買いしてしまう。若い日の宇野千代の姿が鮮やかである。また「手巾」に出てくる教授も新渡戸稲造をモデルにしているとされる。
「俊寛」は菊池寛にも同名の作品があり、読み比べてみると、人物造形が異なっている点が興味深い。菊池のほうの俊寛は、島に取り残される人が普通に見せる悲哀と、そこから立ち上って生きぬこうとする姿であるが、芥川の俊寛像はひと捻りしてあって、芥川らしい工夫の跡がうかがえる。
芥川は短編が巧みであったが、古典の語り直しで評価を得ることに納得できなかったのか、それとも新境地を開こうと考えたのか、長編や自伝的なもの、私小説風のもの、と次々試みたようである。だがそれらは結局うまくゆかず、挫折し、未完に終わり、また死後に原稿が見つかって未完成のまま発表される、というかたちになった。今日私たちもそれらを未完の作、あるいは遺作として読むことができるのだが、活字になったものを見れば、その内容は切れぎれであったり、取りとめもなかったり、整合性がなかったり、また断片、断章のようなものであったりする。それらを芥川の純粋で繊細な感性の表出とみることもできるし、完成した作品になる前の、生の素材の提示ともみることができる。どう受けとめるかは、それぞれの読み手の心に委ねられているだろう。
「河童」「或る阿呆の一生」「歯車」など晩年の作品には、漂う悲しみと痛ましさがある。内科的な病気も抱えていたそうだが、片頭痛の発作や不眠にも苦しみ、次第に精神的にも追い込まれていったようである。壊れてゆく人の心をたどって読み進むのはつらいが、「歯車」に現れる「絶えずまはつている半透明の歯車」や「銀色の羽根を鱗のやうに畳んだ翼」という表現から推測すると、芥川は「閃輝暗点」の症状に苦しめられていたとされるそうである。
激しい頭痛とともに、幻として眼前にあらわれる奇怪なかたちのものを、芥川らしく文芸的にとらえ、表現しようとしている箇所を読むと、最後まで作家としてものを見つめようとした作家の魂、言葉を模索した意思の力が感じられて痛ましい。幻視を目の病気と思い、眼科医にかかっていたようだが、医師から節煙は勧められたものの、正しい病名については教えられなかったという。当時の医学では、未知の領域だったのだろうか。片頭痛や幻視に悩まされるたびに、芥川はそれを、心を病んで亡くなった実母の姿と重ね合わせ、発狂の前兆ではないかと不安に思い、恐れていたという。それにしても三十五歳の生涯は、あまりに短かったと思う。
「羅生門・鼻」(新潮文庫)