相 撲 発 祥 の 地
相 撲 発 祥 の 地
桜井市から三輪山麓を通って、天理、奈良へと抜ける道は、山の辺の道と呼ばれている。その道筋には古代の遺跡が多くあり、穴師の集落には相撲発祥の地があるという。どんなところなのか訪ねてみた。
龍王山から巻向山、三輪山へと続くゆるやかな稜線が、前方に連なって見える。坂の途中の見晴台からは、大和平野が一望できた。
「やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる やまとし うるわし」と古事記にも詠われているのどかな情景である。
穴師の坂道を登っていくと、相撲神社に出た。
垂仁天皇のとき、出雲から召し出された勇士、野見宿禰(のみのすくね)と力自慢の地元の力士、当麻蹶速(たぎまのけはや)が天皇の前で組み合ったことが、相撲の起源とされている。二人が勝負をしたのがこの地で、それは命がけの試合であったという。
日本書紀によると、二人は向かい合って立ち、足を上げて蹴り合った。野見宿禰は当麻獗速のあばら骨をふみくだき、またその腰を踏みくじいて殺した、という。
負けることは死であったのだ。単なる力比べというよりも、宗教的な行為、または呪術の類ででもあったのだろう。そこには何らかの政治的要素が絡まる背景があったのかもしれない。
勝者には褒賞が与えられた。
「当麻蹶速の地(ところ)を奪(と)りて、ことごとく野見宿禰に賜ふ」とある。地元の力士を失った当麻側からみれば、やりきれない出来事だったのではないだろうか。
野見宿禰はそのまま大和の地にとどまって、天皇に仕えた。
日本書紀は、野見宿禰の進言により、貴人の埋葬の際、生きた人の代わりに埴輪を作って陵墓に立てることになり、土部(はじべ)の民が出雲から多く呼び寄せられた、と記述している。土器作りの技術を持った出雲の人々が、大和に移り住むようになったらしい。
境内を歩いてみる。林の中は草が伸び、中央に四本の桜の立木で囲まれた土俵らしい円があって、そこだけは草がない。
案内板を読むと、昭和三十七年、大阪場所の折に、相撲発祥の地であることに敬意を表し、当時の相撲協会の理事長や横綱、幕内全力士がここを訪れて、青天井のもと、大鵬や柏戸が、土俵入りを奉納したそうだ。
相撲神社とはいうものの、社殿らしいものは見当たらず、よく探してみると、奥のほうに野見宿禰をまつる簡素な祠があった。ひっそりとして訪れる人の気配はなく、聞こえるのは頭上のこずえの鳥のさえずりのみであった。
(2007・1・31)