一賀茂の社一
賀茂別雷神社(山城一宮 上賀茂神社)
賀茂御祖神社(山城一宮 下鴨神社)
一賀茂の社一
賀茂別雷神社(山城一宮 上賀茂神社)
賀茂御祖神社(山城一宮 下鴨神社)
京都の古社を訪れることにした。上賀茂神社と下鴨神社は二社で山城国一宮、京都を代表する神社でもあるだろう。大田神社は初夏にかきつばたが咲き乱れる景勝地で知られている。晩秋の一日、賀茂の社をたずね上賀茂から下鴨へと歩いてみることにした。
まず地下鉄松ヶ崎駅で降り、深泥池(みどろがいけ)のほうに向かって歩きはじめると、近くの東西の山には、送り火の「妙法」の字の一部が見えている。正面からではないので字ははっきりとは読めない。送り火は左京区如意ケ嶽の「大文字」が圧倒的に有名であるが、北区大北山「左大文字」右京区嵯峨曼荼羅山の「鳥居形」、北区船山「船形」、左京区松ヶ崎東山・西山の「妙法」で合わせて五山である。
静かな住宅街の中の細い道を抜けていくと、ほどなく水をたたえた深泥池(みどろがいけ)に出た。京都盆地は昔広大な湖であったというが、その面影を残す名残の池として眺めてみると興味深い。
深泥池にはさまざまな植生があることで知られている。池のすぐ近くまで民家や道路が迫っているが、苔類など珍しい水生植物が見られ、野鳥の飛来も多いという。池は底なし沼という伝承もあったらしいが、実際には深いところで水深二十メートルほどであるとか。水辺に目を向けると、水鳥が池に浮かぶのどかな朝の情景が広がっていた。
大田神社
深泥池から歩いていくと大田神社の鳥居が見えたので、立ち寄った。上賀茂神社の境外摂社で、入口にある「大田の沢」のかきつばた群落は有名である。
神山や大田の沢のかきつばた ふかきたのみは色にみゆらむ 藤原俊成
古くから景勝地であったらしく、尾形光琳の「燕子(かきつばた)図」のモチーフにもなったという。深泥池とそう離れてはいないので、このあたりにはずっと沼地が広がっていたと思われる。今は彩りのない秋の寂しげな水辺であるが、初夏に訪れたならすがすがしい花の世界が広がっているのだろう。かきつばたが一面に咲き乱れる様子を心のうちに想像しつつ大田の沢を眺め、参道を進んでゆく。
大田神社の祭神は天鈿女命(あめのうずめのみこと)。夫神の猿田彦命とともに祀られている。この神社の起源は上賀茂神社よりも古いそうで、賀茂の地では最古の社であるという。古くは恩多神社と呼ばれたそうだ。もともとこの土地に住んでいた壬生氏、丹生氏、小野氏らが彼らの祖神(福神)を祭祀していたそうだが、(境外社の福徳社、境内の百太夫社などのことを指すらしい)時代を経て、賀茂氏がこの地に移住してきて沼地を開墾し、住み着くようになると、やがて賀茂別雷神社が創建され、大田神社はその摂社となったという。
社殿は山麓に位置し、周囲は緑の樹木に包まれていて、せせらぎもあって清らかな印象、耳を澄ませば、微かに水の流れる音や野鳥の囀りが聞こえてくる。境内入口の橋の下には「蛇の枕」という石が見えていて、日照りのときに、この石を農具で叩くと蛇が怒って雨を降らせるという伝承がある。雨石と呼ぶそうだ。
社殿横にある細い流れを越えると、背後の山には散策路の小道がつけられていて、近所の園児たちがどんぐり拾いに行くのだろうか、先生に引率されて笑いさざめきながら上っていった。その少し後から上っていくが、途中から園児たちとは違う道をたどったらしく、いつのまにか園児たちの声も遠のき姿も見えなくなった。
左手の山が神宮寺山と思われる。しばらく林の中を歩き、薄暗い切り通しの道を進んで池の辺りまで出てみる。地図には小池とある。山中に、思いがけず水をたたえた静かな池が出現したことに驚く。上賀茂神社の境内を流れる御物忌川の水源はここだとも。水路に水が流れていく。周囲の紅葉の木々は美しく、それらを眺めた後、同じ道を引き返して大田神社に戻った。
上賀茂神社
上賀茂神社へと向かう。社家(しゃけ)と呼ばれる神社に奉仕する神官たちの家が町内に何軒もあり、立派な門構えでそれとわかるようになっているという。家の前をさらさらと小川が流れゆき、邸内には川水を引き入れ、禊のための井戸もあるそうだ。
さらに進んでいった。この辺りには、片山御子社の鎮守として神宮寺があったというが、明治の神仏分離令で切り離されて今はない。一キロほど離れた神光院に移転したそうだ。ご本尊の薬師如来像も移されたという。神宮寺には多宝塔などもあったらしい。また片山御子社の背後の山は神体山で、古くは片岡山、賀茂山、二葉山などと呼んだそうだ。
かつてここには晴池という大きな池があり、池の石を鍬で叩くと雨が止むと言い伝えられ、大田神社にある雨乞いの石と対になっていたそうである。古には龍神信仰があったらしい。けれども廃仏毀釈の折に、晴池は埋め立てられてしまい、跡地は住宅地になった。その後、複数の住民の夢見により、棲み処を失った池の龍神を、近接する二葉姫稲荷神社境内に八島龍神の名でお祀りし、鎮めているそうだ。
みやびかな曲水の宴の行事で知られる渉渓園(神宮寺の跡地に近年つくられた庭園)を眺めつつ、澄んだ水の流れる御手洗川に沿ってゆく。紅葉の盛りとなった樹木が目を惹き、すがすがしい神域に入ったのを感じた。昨日は雨だったのでそのせいか川水には勢いがあり流れは速い。
細殿の前には立砂(たてずな)が二つあった。これは神体山をかたどり円錐状に滑らかに砂を盛り上げたもので、清めの盛り塩の原型という。砂の見事な造形である。二つあるのは陰と陽を表わしており、てっぺんの尖ったところには象徴的に松葉が一組だけ指してある。古に青々とした木の枝を差して、これを神籬(ひもろぎ)と見立て、神を招きよせたことの名残なのだとか。どうしたらこんなにきれいに砂を尖らせることかできるのだろう。しばらく眺めていた。
片山御子社(片岡社)のほうに向かう。賀茂玉依比売命を祀り、紫式部もここを参拝し祈願したと伝えられている。鈴の緒は美しい配色に整えられ、引いて鳴らすと頭上から降るように響くたくさんの鈴の音色がなんとも軽やかである。横にあるのは唐破風造りの屋根のある片岡橋、背後には神体山がある。
ほととぎす声待つほどは片岡の もりのしづくにたちやぬれまし 紫式部
上賀茂神社の社殿へと進んでゆく。御物忌川の細い流れを越えて華麗な赤い楼門をくぐり、本殿前の石段を上ってゆく。格式の高さが感じられる。
社号は正式には賀茂別雷(かもわけいかずち)神社。祭神は、賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)。
由緒では、神山に降臨し、雷の霊威により厄災を祓う神。桓武天皇の平安京遷都後は、王城鎮護の神として崇敬されたという。神社創建は天武天皇の御代とされるが、それ以前に既に祀られており、欽明天皇の御代に祭祀(葵祭の起源)が営まれていたとされる。
正面と思われる位置に立って拝するが、神体山の神山(こうやま)は遠すぎて見えず(実は二キロほど北にある)、本殿内の様子も、外からでは視界が遮られてよく見えない構造になっていた。
「山城国風土記逸文」を見てみよう。
神武東征の折、日向の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が神武軍の先頭に立って大和に入り、葛城にとどまり、岡田の賀茂に着き、やがて山城の地へと移っていった。葛野川(桂川)と賀茂川の合流点に到り、さらに遡って、賀茂川の上流に行って住んだ。そして丹波の伊賀古夜姫(いかこやひめ)を娶り、玉依彦と玉依姫を生んだ。玉依姫が瀬見の小川(賀茂川)で遊んでいたところ、丹塗り矢(実は神の化身)が流れてきたので、これを持ち帰り床の辺に置くと懐妊し、男児が生まれた。祖父の建角身命が父親を知りたく思って酒宴を催し、集まった客の中に父親がいれば、酒を飲ませるよう男児にうながすと、子どもは酒杯を手に天井を突き抜けて天に昇っていった。この子どもをお祀りしたのが上賀茂神社である。母親の玉依姫と祖父の賀茂建角身命をお祀りしたのが下鴨神社で、そして父親の正体は乙訓神社に祀られる乙訓坐火雷神(おとくににいますほのいかずちのかみ)であった。
古事記では、建角身命は天上から遣わされた八咫烏(やたがらす)として現れ、熊野山中で、毒気により倒れていた神武天皇と軍を吉野へ先導し、宇陀から大和に入ったとされる。
また「秦氏本系帳」によれば、秦氏女子が葛野川で洗濯をしているとき、上流から丹塗り矢が流れてきたので、これを持ち帰ると、懐妊し男児を生んだ。祖父が父親を知るため宴を開き、男児に盃をとらせて父親に差し上げるように言うと、男児は人ではなく戸の上の矢を指し、矢は雷になって屋根を破り天に昇って行った、という同様の話が載っている。丹塗り矢は神の化身(ここでは松尾大社に祀られる大山咋神)であったとされる。
似通った伝承をみたが、丹塗り矢に化身して川を流れ下った神は、火雷神とも大山咋神ともみえ、二つの伝承の神の名は異なっている。松尾大社はこの大山咋命を祭神とし、火雷神のほうは乙訓神社に祭られているとされるが、乙訓神社の所在地には角宮神社(長岡京市)と向日神社(向日市)の二説がある。
平安時代には、東は賀茂の厳神、西は松尾の猛霊、と並び称せられた。霊威が強く、都の人々におそれられた神であったらしい。
建角身命が、九州出身であるのかどうかという点については、学者の間で説が分かれており、よくわからないそうである。山城国風土記逸文では、九州から来たようであるが、古事記によれば、険しい熊野山中に現れて道案内をつとめたといい、それが可能なのは、おそらく地理に詳しい地元の人々であったからだろう、という風に考えられているそうだ。
以前葛城古道を歩いたとき、高鴨神社、鴨都波神社、などいくつかの鴨氏系の神社を訪れた。そこに祀られる神は味鋤高彦根神、事代主神、下照姫命など大国主命の子神の出雲系の神々であった。ところがここ上賀茂社の祭神名には、葛城にあった鴨氏系の社のそういう神々の名を見つけられなかった。葛城の鴨氏と、山城国に移った鴨氏とは系統が異なるのかもしれない。
別雷神が天に昇った、という神社創建の伝承であるが、これを一つの物語世界としてみるのなら、大切な男児を落雷で思いがけず失ってしまった家族の悲しみや動揺、それと自然神への畏怖が感じられる。もし神婚の結果、生まれた子と信じていたのであれば、父親が誰であるか、その正体を知ろうとすること自体、禁忌だったのではないか。
この場合は、神に対して気軽にものを問いかけたり、神の素性などを詮索してはならなかったのであろう。畏れつつ、慎んで、御子を大切に育てていれば、男児は無事だったかもしれない。神は普通は人の目には見えず、人前にも顕れない存在、人が神の真の姿を見ようとしたり、その名や正体を知ろうとすることは、神の意に沿わない振る舞いとされたのであろう。
女性が神と婚姻し、その姿を知ろうとして破滅する話は、三輪にもある。考霊天皇皇女倭迹々日百襲媛(やまとととびももそひめ)は夜に通ってくる三輪山の神の姿を見たいと願いそう言うと、神は櫛箱に入っていようと告げる。翌朝箱を開けると小蛇がおり、驚いた媛は箸がほとに刺さって死んでしまう。またギリシャ神話にも、ゼウスとセメレー(婚姻した神の本性を知ろうとし、女性が雷光に打たれて死ぬ)など似通った話が存在する。
神と人間の間には、越えてはならないものがあったのではないだろうか。人間の側から神にじかに問いかけてはいけないことが。こうした話を幾つか読んでいると、神と人間の関係にはある約束事が存在し、人間の側が犯す過ちによって、神との関係が破綻あるいは消滅していくという形になっていることに気づく。神の正体を詮索し、神を自分の目で見ようとすることは、人間の傲慢さの表れなのだろうか、とふと考えてしまう。
上賀茂神社の境内を歩いてゆく。境内は広々としていてどこも手入れがゆきとどき、紅葉もきれいで、たくさんの人が色づいた木々を見上げカメラを向けて楽しんでいる。緩くうねりながら境内を流れるならの小川(御手洗川の異称)の川水は清らかに透き通っていた。小倉百人一首の藤原家隆の歌。
風そよぐならの小川の夕暮れは みそぎぞ夏のしるしなりける 藤原家隆
開放的な芝の空間が、神社の境内とは思えないほどの規模で広がっている。これは馬場であろう。五月に執り行われる華やかな葵祭の様子を想像しつつ、上賀茂神社を後にした。
河合神社
下鴨神社へ向かうことにした。賀茂川沿いの道をゆっくりと下っていく。風が冷たく寒い日であったが、散歩する人やベンチで休む人の姿があった。植物園の森を左手に見ながら通り過ぎていく。
町並みを抜けて、下鴨神社摂社である河合神社の境内に入っていった。糺の森の南に位置する静かな神社と思っていたのだが、人が、それも美麗祈願の鏡絵馬(手鏡形で顔を描くようになっていて可愛い)に関心を持つ若い女性の姿が多いのに驚く。テレビや雑誌などで紹介され、人気となったようだ。
河合神社の祭神は玉依姫命(神武天皇の母)。社号は正式には鴨川合坐小社宅(かものかわあいにますおこそやけ)神社と長く、鴨長明がこの神社の神職になることを望んで叶わなかった神社である。鴨長明は下鴨神社の神官の家系に生まれたが、父を早く亡くしたそうだ。和歌と琵琶を学び歌人として名を挙げていたが、五十歳のとき、神官への望みが断たれると出家隠棲して京都郊外の地を転々とし、五十八歳のとき、伏見日野の地で草庵を結び「方丈記」を執筆した。六十二歳で没している。
今年は方丈記が書かれてから八百年になるそうだ。もし鴨長明が望みどおりこの河合社(ただすのやしろ)の禰宜となって出世し、高地位を得ていれば、あの厭世観、無常観がただよう「方丈記」は書かれたのだろうか。仮に思いを綴ったとしても、その内容はまた違ったものになっていたかもしれない。
都を離れた里に居を移した鴨長明は、組み立て式の簡素な庵を工夫して持ち運んだといい、その方丈の庵の復元模型が境内に置かれてあった。竹垣で囲まれた狭く小さな庵であった。なおこの河合神社の北側には、下鴨社の神宮寺跡と池跡がある。
下鴨神社
参道を歩いてゆく。世界遺産の糺の森の景観は、どの季節に来ても緑が深く美しい。楠の大木が多いようである。右を流れるのが泉川、左は瀬見の小川である。楼門をくぐり本殿前に進むが、よく見えない構造になっているのは上賀茂社と同様であった。本殿前には干支を祀るお社が立ち並び、人で賑わっている。
下鴨神社の正式社号は賀茂御祖(かもみおや)神社、祭神は賀茂建角身命と玉依姫命である。上賀茂神社の項で前述したように、宴の席で酒杯を手に天に昇った男児をお祀りしたのが上賀茂神社で、その母親の玉依姫と祖父の賀茂建角身命をお祀りしたのが下鴨神社である。創建は古く、崇神天皇の時代に、神社の瑞垣の造り替えが行われたことが記録にみえるそうだ。
御手洗社のほうへと回っていく。御手洗池の水はとても少なくなっていた。葵祭で、古式の装束をまとった斎王代が、そっと両手を水に浸して清めるあの場所である。この池は土用の丑の日の前後に行われる「足つけ神事」でも知られている。
茶店に立ち寄り「申(さる)餅」と黒豆茶をいただいて休憩した。申餅は葵祭の申の日にお供えする神饌で、作り方は宮司直伝であったが、最近はここでも販売されるようになったという。小豆の茹で汁で搗いた可愛い一口ほどのお餅で、折敷に載せて出される。中は小豆餡、あっさりした甘味であった。お餅の色は薄い小豆色で「はねず色」と呼ばれ、説明書を読むと、はねず色とは、明け方の一瞬、空が薄い茜色に染まる様子で、命の生まれる瞬間を表わすとされるとのこと、神道のほうでは生命のあらたまる色とされているらしい。(この事については、元伊勢の風景ー倭姫命世記の世界ーにも書いている)
境内は広いので散策するのにもふさわしい。緑の中を歩いていると自然と心もすがすがしくなる。「烏の繩手」という表示を見たので、少しその辺を歩いてみる。縄手とは縄のように細長い道という意味で、八咫烏(賀茂建角身命)の神様にお参りするための参道である。糺の森には何本かのこうした小道があったといわれる。復元されて整えられ歩きやすく感じの良い径になっていた。その道筋では発掘調査が今も行われているようで、昔の祭祀場の跡などがみられた。発掘現場を見ると、四角い空間のようだが、どんな祭祀が行われていたのだろう。そこには森の中にあるひっそりしたかつての聖地とでもいう雰囲気が漂っていた。