有吉佐和子
「紀ノ川」「華岡青州の妻」(新潮文庫)
有吉佐和子
「紀ノ川」「華岡青州の妻」(新潮文庫)
有吉佐和子は昭和六年生まれ、和歌山県出身。銀行員だった父の赴任地バダビア(インドネシア)で小学校時代を過ごして帰国、二十五歳のとき「地唄」で芥川賞候補となり、翌年「白い扇」で直木賞候補になった。二十八歳のとき、自らの家系をもとにした長編「紀ノ川」を発表、その後アメリカのサラ・ローレンス大学に留学した。三十歳のとき興行師と結婚、長女玉青をもうけるが、夫が事業に失敗、多額の負債を抱えたため二年後に離婚。代表作は、世界初の麻酔手術に成功した外科医、華岡清州の嫁姑の葛藤を描いた「華岡青州の妻」、ほかに「恍惚の人」「複合汚染」、歴史小説では「出雲の阿国」「和宮様御留」など。
作品は映画化、テレビドラマ化され、才女と呼ばれ人気作家であった。小説だけでなく戯曲や演出も手がけ「女二人のニューギニア」など軽妙なエッセイも。芥川賞、直木賞はともに受賞を逸したが、「華岡青州の妻」で女流文学賞、「出雲の阿国」で芸術選奨、「和宮様御留」で毎日芸術賞を受賞した。「香華」「不信のとき」「青い壷」「海暗」「一ノ糸」「墨」など作品の幅は広く多作であった。もともと体は弱かったそうで旺盛な執筆、文芸活動の蔭では強度の不眠症に悩み、睡眠薬を常用していたとも。娘がイギリス留学中に急性心不全で他界、享年五十三。一人娘の玉青はエッセイスト。
「紀ノ川」 あらすじ
美貌で聡明な花は、九度山の素封家の娘。母を亡くし祖母の豊乃から愛情を込めて育てられた花は「家格よりも男」という祖母の意見を容れ、船で紀の川を下って、下流の六十谷(むそた)へと嫁いでゆく。夫の敬策は村長から県会議員へと進み、花は多忙な政治家の夫と家を支えて人望を得る。変わり者で通る義弟の浩策はひそかに花に思慕を寄せるが、想いとは裏腹の屈折した言動をとって花を悩ませた。花は五人の子を授かるが、長女の文緒にはことごとく反抗され、その激しい行動力に振り回される。
文緒は旧家を嫌い、新しい思想と生活を求めて東京の大学に進むが、本人も気づかないまま巧妙に仕組まれた見合いにより、恋愛と信じて東京で結婚、夫に従って任地の上海に発っていった。文緒はそこで生まれた次子を病で亡くし、三子を身ごもったときは実家に帰って産んだ。その子が華子であった。花は海外で育った孫の華子と心の通い合うものを感じ、慈しむが、時代は戦争の暗い影が忍び寄ってゆく。
代議士になっていた夫の敬策が上京中に思いがけず急逝し、花は失意の日を過ごす。やがて敗戦と戦後の混乱期を迎えて、人々の生活にも大きな変化が訪れた。花はいさぎよく時代の変貌を受け入れ、六十谷の古い家に退いてそこで美しいまま老いてゆく。次女の和美が嫁ぎ先で病死し、子を失う悲しみも味わった。やがて自身も病の床に就き、心身の衰えとともにゆっくりと死が近づいてくる。そんな花を東京の出版社に勤める華子が見舞い、率直な感情をさらけ出してやまない花を看病した。文緒と交替し、ひとり東京に戻る華子は、その帰途、かつて幼い頃、花に連れられて上った和歌山城の一日を思い出し、久しぶりにその天守に立ち、青く流れゆく紀ノ川と彼方の海をしみじみと見つめるのだった。・・・・
花、文緒、華子と続く三代の女たちの物語である。紀ノ川沿いの古風な響きを持つ美しい言葉が堪能できる。「そうやのし」「ごめんなしてよし」「貸して頂かして」「行て参りますよし」「お帰りなして」・・・・これら優雅な言葉は、今も使われているのであろうか。
冒頭で格式高く塗駕篭ごと船に乗って嫁いでゆく花の姿は、まるで時代劇の一場面のようで、どんな物語がはじまるのかと期待も高まる。嫁ぎ先の旧家での日常の情景がよどみなく語りだされてゆき、この小説自体、青い紀ノ川のようにたゆたって流れてゆくのである。特に大きな出来事があるわけではなくて、主人公の女たちが時代の波に揉まれつつ、肉親の死を乗り越えて生きてゆく姿が活写され、多くの逸話が丁寧に積み重ねられてゆく。人が生きるとはこういうことであり、人が死ぬのはこういうことなのだ、と実感できる確かな筆づかいである。滑らかで柔らかな語り口に導かれて心地よく読み進むうち、やがて老いた花にも死が近づき、花と華子の間には目には見えないけれど強い絆があり、何かが継承されてゆくことが暗示されて物語は終わる。若い頃に読んだ作品であるが、今回改めて読み返してみると、紀州ののどかな風景が浮かび上がり、そこで交わされる言葉もまた味わい深いのであった。
以前、九度山の慈尊院を訪れたことがあった(紀伊一宮 丹生都比売神社の項)。その日は、真田庵を見てから慈尊院へと歩きはじめたのであった。慈尊院は女人高野といわれており、空海の母堂が晩年を過ごしたことで知られるお寺である。その慈尊院の石段を上って境内に入り、弥勒堂にあげられた絵馬を見たとき「ああ、ここだったんだ」と昔読んだ有吉さんの「紀ノ川」の冒頭場面が鮮やかに蘇った。お堂に近づき、作中にも出てきた白くなまめかしい実物大の「乳房型」(ちちがた)絵馬をしばらく見つめていた。
・・・・高野山はの、女(おなご)は入れえへんがのう、この慈尊院までは上れるんやしてよし。そやよってに、ここは女人高野と云うんやして。花は知ってたわの。・・・・・・・・花も倣(なら)って手を合わせたが、廟の前の柱にぶら下がっている数々の乳房型(ちちがた)に気がつくと、しばらく瞑目することを忘れていた。それは羽二重で丸く綿をくるみ、中央を乳首のように絞りあげたもので、大師の母公と弥勒菩薩を祀る霊廟に捧げて安産、授乳、育児を願う乳房の民間信仰であった。・・・・まだ処女(おとめ)でいる彼女に、今この廟の前で願う言葉はなく、傍らの豊乃に心を併(あわ)せようとだけしていたのである。(「紀ノ川」第一部より)
今も変わらず、安産や豊富な母乳を願う女たち手造りの乳房形が奉納されていた。中には乳がん治癒の祈願もあり、絵馬には女性たちのさまざまな思いが籠もっているのが感じられた。作中では、慈尊院へお参りする場面が何度も出てくる。たとえば、はじめての子をみごもった花は、里帰りと安産祈願をかねて「小(ち)そうて可愛(かい)らし」乳房型を作り、祖母に伴われて慈尊院に詣でるのだが、二度目の出産のときには、乳房型はこのようになる。
・・・・「花 二十六歳」と豊乃の筆で記された乳房型は、もし四年前の政一郎誕生前にあげた乳房型と較べることができるなら、随分大ぶりに作られているのに気付いて、花も豊乃もそれぞれに思うことがあっただろう。出産も経験を一度持った花には、もう不安や辱恥の翳(かげ)はなかった。(「紀ノ川」第一部より)
無事に長男を生み、母親として自信もついてきた花の心象が、気持ちの余裕となって乳房型の大きさにも反映されていくのである。慈尊院は第二部でも使われている。
文緒は銀行員と結婚し東京で長男を産むのだが、安産祈願というような民間信仰は迷信と頭から決めつけたので、花は娘には何も言わず、乳房型を作って代りに慈尊院に詣で、文緒の安産を祈ったのだった。文緒が次の子をみごもったと知ったとき、花は多忙だったため詣でず、人にことづけて頼むこともしなかった。それもあって文緒の次男は外地で夭折したのではないかと、花はひそかに悔いる思いがあったのである。いきさつを聞いた文緒はいつになく神妙に作り方を花に聞き、不器用な手で乳房型を縫ったのだった。
・・・・「文緒 二十六歳」と書かれた乳房形は、慈尊院の弥勒堂にあげられると断然その大きさだけでも他を圧した。掌に握れるほどの乳房形が吊下がっている中で、文緒の乳房形は開いた掌にも余る特大型だったのである。背の高い文緒はそれを、それを弥勒堂の柱の一番高いところに吊下げることができた。・・・・文緒は帰るとその様子を面白可笑しく皆に語り聞かせて自分から笑い転げ、「効験があると信じたわけやないけど、こいだけ気が楽になるんやよって迷信も捨てたもんやないと思いましたわ」と、まだ理屈をつけようとしているのだった。(「紀ノ川」第二部より)
弥勒菩薩と空海の母公を祀る慈尊院の弥勒堂は、古くから地域の女たちの信仰を集めており、慈悲のまなざしでもって女たちを見守る、いわば心の拠りどころとして描かれている。青い紀ノ川が時の流れを暗示しているとしたら、こちらは母性の象徴、いわば地母のように温かく揺ぎないものとして、読み手に「乳房型」の存在を印象づけるのである。
実際弥勒堂に立つと、乳房をかたどった絵馬が並ぶ情景は特異で、生々しくて正視するのも気恥ずかしいくらいだが、またそこに女性たちの素朴で真剣な心のありようがあらわれているとも感じられるのだった。
折に触れて出てくる川の描写が、登場人物の心象や季節とともに推移し、多様な面を見せるのも興味深い。花の嫁入りの春の日の紀ノ川は穏やかで「美(う)っつい青磁色の揺らめき」であったが、豪雨となり氾濫時には濁流となって荒れ狂い、六十谷から上流に嫁入りして間のない分家の娘を呑み込んでいった。花は後年、夫とともに大井川を列車から眺めたときも、紀ノ川に比べて「味のない川」と思い、東海道線から見たどの川にも心を動かされず、郷里の紀ノ川ほど美しい川はほかにないと感じるのである。
上流の九度山からはじまったこの物語の最後を締めくくるのも、紀ノ川が海へと注ぎ込むその河口の描写であった。華子は和歌山城の天守に立って紀ノ川を確かめ、その川下に広がった近代的な大工場の建物群を知って落胆し、さらに紀ノ川が流れ込んでゆく紀州の海を見つめる。
・・・・その手前に紀ノ川が、まるで流れているとは思えぬほど静かに平面的に、翡翠と青磁を練りあわせたような深い色をして横たわっている。・・・・河口に近く林立する煙突が見えた。・・・・大工場が河口の北部に蜿蜒(えんえん)と建ち並んでいるのだった。・・・・華子はそこを離れると、茫洋として謎ありげな海、波が陽光を弄ぶのか、見る間に色の様々を変えて見せる海をいつまでも眺めていた。(「紀ノ川」第三部より)
この作品は、作者の実家の家系をもとにして書かれ、華子が作者自身だといわれている。けれども、行動力があって、活躍がめざましかったように見えた有吉さんの生前の姿から、華子よりむしろ文緒に近いのではないかと思う人もまた多いようである。作者の実像についてはよく知らないけれども、優しくて健気な華子が有吉さん自身であるというなら、それは同時に反骨精神旺盛で行動力のある文緒でもあったろうし、また古風でしなやかに生きていながら芯の強かった花の内面をも併せ持っていたであろう、と作品を読んだ後では納得できるものがある。
血のつながる縁者を作品に描くことには、難しさがあるかと思われる。いくら巧妙に作ったとしても、一族の秘めごとや親族の赤裸々な姿の一端を世間にさらすことになるので、身内のかたがたにとっては、この作品には複雑な思いもあったことであろう。
視点は三人の知的な女性にあり、常に彼女たちの心象を中心に描いているので、どうしても男たちの影は薄まり、花の夫敬策もそれほどの魅力があるとはいいがたく、有能な政治家としての類型的な描写にとどまっている。むしろ何もしないで毒舌を吐いて生きる浩策のほうが陰影に富む性格で面白く、いっそ浩策と花がもっと親密になるような逸話でも入っていれば、物語を展開する上で起伏や変化があってよかったかもしれないとも思う。兄弟間の嫉妬は描いているが、嫁姑の葛藤はうまくかわして避けており、どちらかといえば綺麗ごとの関係に終始している。
この作品は作者二十八歳のとき、才女といわれる所以であるが、嫁姑の本気の闘いを描くのを抑えたのは、親族への遠慮もあったかもしれないが、次に挙げるこの作品を構想していたからかもしれない。
「華岡清州の妻」あらすじ
加恵は名手本陣の旧家の娘。二十一歳で医者の華岡家へと嫁いだ。夫雲平は京都へ遊学中で不在、姑の於継は美しく聡明で評判も高く、幼少時より加恵の憧れの女性であった。華岡家の女たちは質素を旨とし機織に励んでは、雲平に仕送りしていた。於継は加恵を可愛がるが、三年後に雲平が帰ってくると、この上なく和やかであった嫁姑の関係は一変し、険悪になってゆく。やがて舅が亡くなると雲平は父の後を継ぎ、清州と呼ばれるようになった。加恵ははじめての子を里帰りして産むに際し、母親に姑の非を言い立て訴えるが、当惑されるばかり、生まれたのは女の子であった。
清州の妹が乳がんに侵され、尽くす手立てもないまま亡くなっていった。清州は麻酔薬作りに心を砕いていて、犬猫で実験を繰り返していたが、人体では試しかねていた。ある夜、於継が自分を使うようにと言い出したとき、加恵も負けずに申し出て互いに言い争い、清州は二人とも使うことを決意し、その場をおさめた。
於継が先に服用した。清州は弱い薬のみを調合していることを加恵に告げ、於継には何も知らせなかった。次いで加恵が薬湯を服用、強い薬が用いられて三日間昏々と眠り続けた。付き添って介抱する清州の様子に、自分のときとの扱いの違いを知って於継は嫉妬する。於継は対抗心から再度申し出て服用するが、それもごく弱い薬であった。
加恵の一人娘が病を得て呆気なく亡くなってしまい、加恵は哀しみと寂寥の日々を過ごす。あるとき清州がひそかに自分で服用し実験を重ねているのを知った加恵は、ぜひ自分を使うようにと頼み込み、清州は承知した。薬湯には劇薬が使われ、翌朝になって覚醒した加恵は目の激しい痛みを訴え、両眼とも視力を失っていた。
やがて於継が逝き、加恵には長男が生まれた。清州は乳がん患者の老女にはじめて麻酔を使って手術を行って成功し、医師としての名は高まってゆく。その一方で清州の妹が発病し、首の血瘤のため手術は難しく死を待つばかりになった。いたわる加恵に妹は、嫁姑の闘いのおそろしさをつぶさに見てきたと加恵に語り、そのような争いを利用して実験を行った兄の冷徹さを指摘、自分は嫁がなくてよかったと告げるのだった。
・・・・
史実のほうでみると、華岡清州は江戸時代(宝暦)の外科医。京都でカスパル流外科を学んだ。世界ではじめて全身麻酔による乳がん手術を成功させたことが記録に残っている。患者の老女は四ヵ月後に死亡するが、麻酔薬には曼陀羅華(まんだらげ)、草烏頭(そううず、とりかぶと)など数種の薬草が用いられた。ただ人体実験に関してはほかにも協力者があったようで、実母と妻だけが服用したのではないそうだが、作中では嫁姑の対立に焦点を絞り、争って服用したようになっている。話がどう展開するのか興味深いので、読み手は史実がどうだったかというようなことは次第に忘れ、没頭して最後まで読み通してしまうのである。
「紀ノ川」では控えめであった家族間の葛藤が、ここでは壮絶な闘いとして存分に繰り広げられてゆき、筆はよく伸びて迫力があり気迫が感じられる。きっとこれをこそ書いてみたかったのであろう。「紀ノ川」では遠慮のためか抑制されていたもの、書きたいが充分に書ききれなかったものが、「華岡清州の妻」では奔流のように激しく溢れ出ている感がある。
主人公の加恵は本陣の娘で、紀州藩主の宿所となるような家柄なので「もしかすれば藩主の愛を享(う)けたかもしれない娘」であり、「その事実がない場合は、お目に止まりようもない娘」という立場にあって、当時としては縁が遅れていたのである。姑の於継のほうは、その昔、適齢期にひどい皮膚病に冒されどの医師も匙を投げたのを、治癒のあかつきには娶ることを申し出て治療を任せられた貧乏医師の直道が治し、その結果として華岡家に嫁いだのであった。二人とも何となく微妙な立場や思いを味わった女性、という設定である。この二人の確執が話の中心になってゆく。
「紀ノ川」で培われ蓄積されていたものが、ここに至って一気に開花したらしく、同じ紀州の旧家を舞台にしていても、「紀ノ川」では少々くどかった逸話の反復、語り口の冗長さが「華岡清州の妻」では削ぎ取られ、文体は歯切れよく、簡潔になっている。短く適切な表現や緊張をはらんだ会話、女同士の鋭敏な感覚や憎悪入り混じった心理描写が強調され、効果的に作品を引き締めたようである。
作者が最も力を込めて念入りに描写したのは嫁姑の日々の対立であった。加恵がはじめてみごもったとき、芋粥が常食というつましい華岡家の食卓で、加恵にのみ魚をつけて於継はこのように言うのである。
「・・・・嫁のあなたが食べると思えば心苦しのも当りまえやけれど、生まれてくるのは華岡の家のもんや。・・・・そやよってに膳の上のものは、あなたの腹の中のややこに食べやそうと思うて、みんなが祈りをこめていますのや。おあがりよし」
嫁の遠慮を払うための言葉だと誰でも思ったに違いない。・・・・しかし加恵の耳にはこれ以上冷たい論理はなかった。生まれてくるのが華岡の家の者というなら、産もうとしている加恵は華岡家ではまだ他人なのか。加恵の歯も舌も胃袋も、華岡家の代継ぎを養うための杵(きね)と臼(うす)のような道具でしかないというのか。於継の立派な言葉の中には、どこにも加恵自身に対する労(いたわ)りは込められていなかった。(「華岡清州の妻」より)
この調子で加恵と於継の心理戦が続いてゆく。相手への怒りや憎しみ、嫉妬が原動力になって女二人は冷たい火花を散らし続けるのである。それを傍らで長く見てきた清州の独身の妹は、重い病に臥(ふ)したとき「嫁に行かなんだのが何に代え難い仕合せやったのやしてよし。嫁にも姑にもならいですんだのやもの」としみじみ言うのである。それを聞いた加恵は、すでにこの世を去った姑を悪くいう気にはなれず、過去に起きたことは封印し、ありし日の姑を誉め称えた。けれども妹はその心を見抜き、やがて言うのである。「そう思うてなさるのは、嫂(ねえ)さんが勝ったからやわ」
女たちの心理の推移は丁寧であり、みごとに描きつくされているが、それに比べると夫清州の輪郭は弱く、その性格もよく見えず、父親の直道などはほとんど影が薄れてしまっていて、男女の描き方の落差は大きいのであった。清州の人間的な魅力についても表現は乏しく、といって弱点が強調されているわけでもなく、最後に妹が兄の冷徹さについて言及するのみにとどまっている。はたしてどういう性格の人物であったのか、その本質もわかりにくく見えにくい。
清州は麻酔薬作りに苦心したというけれども、動物実験から人体実験へと進むのに迷いはなかったのか、実母と妻に薬を飲ませるとき、その中身の差や副作用についてはどう考えたのか、はたして二人の争いを間近でどう見ていたのか、妹が言うようにそれを利用する心があったのか、どれも曖昧にしてあるのでつかみにくく、湧き起こる疑問点はすべて読み手の側に委ねられている。女たちに関しては多くの逸話が書き込まれていて圧倒されるが、肝心の清州については、逸話は思いのほか少なく、読み手はあれこれ補って清州の心を想像するしかない。
「紀ノ川」で義弟の浩策の存在がきらりと光ったように、「華岡清州の妻」でも義弟とか弟子を出して同様の役割を持たせたかったであろうが、作者はいつも同じ手を使うわけにもいかないとして、引いてしまったのかもしれない。面白くて読み応えのある作品であるが、女たちの葛藤は息苦しいところもあるので、緩衝材として中間的な人物を創作し、作中に配置すればよかったのでは、とも思ってしまう。
多くの作品がある中で、紀州を舞台にした二作を取り上げてみた。両方とも若い頃愛読した作品で、読み返していると当時を思い出して懐かしい。有吉さんは曽野綾子さんとともに才女と呼ばれ多くの読者を獲得、人気ベストセラー作家であった。
有吉さんが亡くなられてから三十年以上の年月が過ぎた。今図書館の棚に、有吉さんの作品は少ない。かつての話題作も世代を超えて読み継がれてはいないようで、多くは書庫に入ってしまい残念である。今回古い本を借り出してみると、どれも埃っぽくてページ端が茶色に変色していた。有吉さんの本はもっと広く読まれていいと思うのだが。
遠い日のことになるが、有吉さんの訃報が伝えられたのは夏の終わりであった。発見者は同居の母親で、病死ということであったが、唐突な死だったので、一部には自殺をほのめかすような報道もあった。有吉さんは阿倍仲麻呂を主人公にした小説を構想していたが、執筆に行き詰まり悩みを抱えていたとか・・・・そういう憶測の記事もあったと記憶している。それにしてもあまりにも早い死であった。長く生きて、すぐれた作品を書き続けていただきたかったと思う。