太宰治
「斜陽」(新潮文庫)
太宰治
「斜陽」(新潮文庫)
太宰治(本名津島修治)は明治四十二年、青森県北津軽郡生まれ。生家は金融業で財をなした大地主で、父は多額納税者として貴族院議員をつとめていた。太宰は十一人きょうだいの十番目で六男として生まれ、母は東京の父と過ごすことが多かったため、乳母に育てられた。太宰が十四歳のときに、父が東京で急逝、長兄(後に青森県知事となる)が家督を継いだ。太宰は十代から文学に親しみ、芥川龍之介に心酔し、同人誌に多くの習作を発表していた。多感であったのか、二十歳のときに睡眠薬による自殺をはかっている。
帝大仏文科に入学するが左翼思想に傾倒し、授業には出ず(後に授業料未納のため除籍となった)、作家を志して井伏鱒二に師事するようになった。青森で馴染んでいた芸妓小山初代との結婚を望み、独断で東京に呼び寄せ、それを知った長兄から分家は許されるものの、津島家からは除籍と通告される。事実上の勘当であった。初代は青森での落籍手続きのためいったん連れ戻されるが、この間太宰はカフェの女給と鎌倉の海で心中未遂、女性のみ亡くなって警察沙汰になるが、長兄らの奔走で起訴猶予となった。
太宰は、自由の身となった初代と東京で所帯を持った。太宰の左翼活動が長兄の知るところとなり、激怒した兄から活動を続けるなら仕送りを停止すると通告され、それをおそれて太宰は左翼活動から遠ざかっていった。その後新聞社の試験に落ち、鎌倉の山林で縊死自殺を試みるが失敗。
「逆行」が第一回芥川賞候補となるが、石川達三「蒼氓」に敗れた。次回の賞を望んで選考委員の一人である川端康成に手紙を書くなどして懇願したが、新人でないという理由で、以後太宰の作品は芥川賞の候補から外されていった。薬物依存になり、薬物中毒の治療のため入院中に、小山初代が津島家の親戚の画学生と密通、退院後に当人たちから告白されて衝撃を受け、初代と心中をはかるが未遂、離別して初代は大陸に去った。
井伏鱒二の紹介で、教師をしていた石原美知子(父は地質学者)と結婚し、甲府で新居を構え心機一転、創作に励む。以後「富嶽百景」「駆け込み訴え」「走れメロス」などが書かれていった。三鷹に戻り、長女、長男をもうけるが長男には発達障害があった(長男は十代で亡くなっている)。空襲の激化で妻子とともに妻の実家の甲府に疎開、この間「お伽草紙」などを執筆するが、甲府も空襲を受けて石原家が全焼、やむなく津軽の生家に一家で身を寄せた。
戦後は三鷹に戻り、歌人の太田静子に提供された日記をもとにして「斜陽」を書き進める。次女が生まれるが(作家津島佑子 故人)、太田静子にも女児(作家太田治子)が誕生、自分の名前の一字を与えて認知した。太宰は結核を患っており飲酒によって病状は悪化していたが「人間失格」執筆に専念、同作の完成一月後、愛人の山崎富栄と玉川上水で心中、遺体は数日後に下流で見つかった。その日は太宰の誕生日であった。遺書はあったが太宰の首に絞め跡が見られたことから山崎富栄による無理心中、また狂言自殺の失敗ともいわれたが真相は不明。享年三十八。
最初の作品集は「晩年」、遺作は新聞連載中であった「グッド・バイ」(未完)。無頼派とも新戯作派とも呼ばれた。作風は退廃的で虚無感が濃厚とされるが「お伽草紙」「新釈諸国噺」ではユーモアのある軽妙な語り口を展開、「駆け込み訴え」「律子と貞子」などでは聖書から材をとって作品化、また「満願」「魚服記」「富嶽百景」などたくみな短編も残している。よく読まれているものは「人間失格」「斜陽」「津軽」「ヴィヨンの妻」「お伽草紙」「走れメロス」「桜桃」「駆け込み訴え」「女生徒」など。
「斜陽」あらすじ
父親を失って没落した華族のかず子と母は、叔父の勧めで東京の家を売り、伊豆の田舎の山荘に移り住む。戦後、生活も価値観も一転し、馴れない日々の中で、母は静かに穏やかに生きようとする。かず子は一度結婚したが子どもを亡くし、夫との間もうまくゆかず離婚、母の世話をしながら暮らしている。弟の直治は戦地に赴いたまま消息不明となっていた。直治はやがて帰還するが、家には居つかずお金を持ち出して上京し、心酔する作家の上原と酒を飲んで遊び歩き、荒れすさんだ浪費の日々を過ごす。かず子は以前、弟にお金を渡すために上原に会ったことが一度だけあり、行きずりの触れ合いではあったが、上原に惹かれていた。かず子は上原に思いをつづった手紙を一度ならず送るが、返事はなかった。
かず子の母は結核を病み、心身は衰えるが、貴族らしく美しく死んでいった。葬儀の後、かず子は決意して上原に会うために上京する。夜の街をさまよい歩いて探し当てた上原は、荒廃した雰囲気を漂わせて酒に溺れ、以前の上原ではなかったが、かず子は引き返すことなく上原と一夜を過ごし、自分の思いを成就させた。
帰宅してみると直治は自殺していた。姉が家を空ける機会を待っていたのだった。遺書には、上原が嫌いだったこと、上原の純朴な妻に密かに恋していたことなどが書かれてあった。かず子は上原の子を身ごもったことを知ると、自分は子どもともに強く生きてゆくつもりだと、上原に対して最後の手紙を書くのだった。・・・・
太田静子の日記をもとに構築した作品とされている。太田静子は近江の裕福な医師の娘として育ち、東京で教育を受けた。文学に憧れを持つ人であったという。結婚したが子を亡くしやがて離婚に至り、山荘で母親と暮らしていたという。子を失った体験を文章にして太宰に書き送ったことで知り合ったそうである。おそらく憧れの作家に批評や指導を求めたのであろう。太宰は静子に日記を書くことを勧め、入手したその日記を材料に執筆した。「斜陽」の後半は創作であるが、前半部分はほとんど日記が引き写されているのだそうである。
太田静子は良い家庭で育ったが華族ではなかった。ただ文学や芸術志向の強い女性であったらしく、日記にも独特の持ち味や魅力があったのだろう。太宰は当初チェーホフの「桜の園」のような作品を構想していたが、この日記を読んで新たな着想が湧いたようである。人物設定を華族とし、後半を自在にふくらませ、社会の混沌や変革、虚無や退廃を背景に、女性の自由な生き方や恋愛、自立という色もつけて、新しい時代の価値観や風潮に合うように展開させていったようである。
戦後、没落した華族の若い女性一人称の恋の物語、というのはそれだけで好奇心が刺激されるものらしく、内容の面白さ、読みやすさもあって「斜陽」は当時のベストセラーになったそうである。
三島由紀夫は「斜陽」を読んで、敬語の使い方について苦言を呈したという。たしかに「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」などという言い方は変であるし、ほかにも表現や、会話の違和感、いかにも華族を模したらしくとってつけたようで気になる箇所はあるかと思われる。
大地主であった津島家が戦後没落していった経緯が、この作品の背景にあるといわれている。そうなると、没落貴族かず子の屈折する心理は、太宰の心が常日頃味わっていた喪失感や寂寥感でもあったろうか。自堕落な人物として登場する上原に、太宰自身の姿が濃く投影されているのはむろんのことであるが、現実に適応できず、死を選ぶ直治もまた太宰の分身にほかならない。
若いときから自殺願望の強かった太宰は、実生活で何度も自殺を試み、また作品の中でも自死の場面を取り上げる傾向にあった。「斜陽」の中でも分身として自分の名前の治の一字を持つ直治が、姉への遺書を残しこの世から去ってゆく。それは作中人物に託した太宰自身の死への願望の表現であり、近い将来に訪れるであろう自分の死を予感し予知しているともいえる。そして読み手には、作中のかず子と生まれてくる子どもの姿に、実在する太田静子と治子の姿がどうしても重なって見えてしまうのである。読み手は、読み進むうちに小説世界と現実が近づき、至近距離から両方を見ているような錯覚にとらわれる。虚構が真実味を帯びて迫ってくるような感覚におちいるのである。
「人間失格」でも男性一人称による語りの手法が使われ、同様の効果を上げているが、「人間失格」の救いのない暗さにくらべると、「斜陽」では困難が予想されるものの最後に母子の強い生き方が暗示され、読み手の心にも救済が与えられる。「人間失格」はかなり読後感が暗いが、「斜陽」は少なくとも最後は前向きであり光が差しているのである。
かず子は手紙で上原にこのように告げる。
「こいしいひとの子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます」そして「私生児とその母。けれども私たちは古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです」
実際には太田静子、治子の母子は生活面でもずいぶん苦労があったようである。自分を主張したかったのか「斜陽日記」(太田静子著)という本も出版したようであるが、世間の目は思いのほか厳しいものがあり、中傷や誹謗もあったらしい。現実には風当たりが強く、決して生きやすいものではなかったということであろう。
「斜陽」では手紙による内心の吐露という技法が用いられ、実にたくみに使いこなしている。文体にも熱っぽさが籠もり、昭和二十年代、その時代の持つ息遣いが生き生きと再現され、身近に感じられる。太宰がまるで若い女性に憑依したかのように滑らかに一人称で語り続けてくれるので、その語り口も大きな魅力となっている。作家の熟練の筆の賜物であろうか。
教科書に「走れメロス」が載っていたこともあって(今も載っているのであろうか)関心を持ち、太宰のほかの作品を求めて、若い頃にはあれこれと読んでいた。「走れメロス」の印象とはまた異なる作品が多く、「人間失格」は、なんという暗い作品だろうと感じたのを覚えている。「人間失格」は映画化もされ、青空文庫もあることから、今も若い人によく読まれているそうである。心の暗部をえぐり、あえてさらけだすような自虐的で重苦しいものが好まれ、あまりの救いの無さにかえって共感を覚えるというのなら、それは今のこの時代の辛さや生きにくさを反映しているのかもしれない。
落ち込んだときは、「人間失格」を読んで暗黒の世界に浸るより、富士には月見草がよく似合う、で知られる「富嶽百景」のほうが、死に傾きがちな心を再び新しい生に向け、生きることに賭けてみようとする太宰の思いに触れられていいと思われるのだが。
太宰が小山書店から依頼されて故郷を旅した、紀行文風の「津軽」は風土や歴史、人との交流がさまざまに描かれていて穏やかな作品となっている。紀行文を装ってはいるが、紀行小説とでもいうべき雰囲気のものであろう。東京で作家となって名をなした太宰が、久しぶりに故郷を訪れて旧友と出会い、ともに酒を酌み交わし、親戚を訪ね、気の向くまま色んな土地を友と巡り、人々と束の間触れ合ってはまた別れてゆく。一期一会の思いがこの作品の底に流れており、細部を支えているのは土地に生きる人々の姿や東北の風景の描写である。
「私はその人を、自分の母だと思ってゐるのだ」とまで慕い続けた懐かしい子守のたけという女性を探して小学校の運動会を訪れ、ようやくのことで再会をはたして旧交を温めるのがこの作品の山場であるが、どうもその場面は、太宰の創作であったらしい。
佐古純一郎著「太宰治の文学」(朝文社)によると、たけさんはその日運動会には行かず、小泊の家にずっといたという。太宰が家に来てくれるとは思わなかったので、久しぶりに会って嬉しかったとも。作中にあるようなぎくしゃくした戸外での再会ではなく、まあごく普通の訪問の感じだったようである。たけさんは再会について著者にこう語ったそうである。「佐古先生、修治はね、小説家だば」
そういわれてみれば、読んでいてあの運動会の場面は妙にぎこちなくてとまどうし、たとえば中勘助が、育ててくれた伯母を訪ねてゆく「銀の匙」の邂逅の場面のような、双方の溢れるような感情の高まり、その自然さにはとても届かないような気がする。
「お伽草紙」「新釈諸国噺」には説話独特の面白みがあるし、聖書に材を求め、新境地を開こうとしたらしい「駆け込み訴え」も、ユダのほとばしるような語り口が絶妙である。芥川龍之介が今昔物語などを素材として独自の作品世界を作り上げたように、太宰も古典や聖書を渉猟しつつ自分に合う題材を探したのであろう。聖書に傾倒していたともいわれるが、太宰が宗教的であったとは考えにくい。作家としての目で、文芸的に聖書を繰り返し読み、小説の素材を探していたのではないだろうか。
また太宰には読者の女性から送られてきた日記をもとに執筆した「女生徒」という作品もあり、未知の他人から提供された生の文章も価値あるものとして活用したようである。十四歳の少女の一日をつづった「女生徒」は繊細ですぐれた作品として川端康成の目にとまり、高評を得たそうである。川端の好みに合致したのであろう。
太宰の作品をざっとみてきたが、太宰の娘という重い枷を背負って創作を続けた娘の津島佑子(故人)にとっては、父の文学世界を深く理解しようとし、自分なりに父を乗り越えてゆくことこそが、一つの指標になったかと思われる。
太宰の死は、流行作家の情死事件として当時衝撃的であったらしい。家族、肉親にはいつまでも傷ましく辛い出来事であり、決して傷が癒えることはなかったであろう。太宰の死が報道されると、玉川上水で自殺する人が多く出たといい、悲劇が拡散してしまったようである。死が死を呼ぶのであろうか、太宰に心酔し師事していた田中英光は太宰の墓前で命を絶ったそうである。太宰の死は、多くの人の心に重く深い傷跡を残していった。