一曾爾の村一 隼別皇子と雌鳥皇女
一曾爾の村一 隼別皇子と雌鳥皇女
すすきの高原として知られる宇陀郡曽爾(そに)村。奈良県と三重県の境界にあり、標高は約九百メートル、自然が美しい山間の地で、記紀にもその地名が登場している。
・・・・大雀命(おおさざきのみこと、仁徳天皇)は異母弟の速総別(はやぶさわけ)王を使者に立てて、異母妹の女鳥(めどり)王を妃にと望むが、速総別王はひそかに女鳥王を娶ってしまう。天皇は女鳥王の歌う歌に謀反を思わせる内容があったことから、速総別王を討とうと軍を興す。速総別王は女鳥王を連れて伊勢に逃れようとし、曽爾で天皇の軍に追いつかれて二人は滅ぼされてしまった。(古事記)
日本書紀のほうも、話の流れはだいたい似通っているが、隼別(はやぶさわけ)皇子と雌鳥(めどり)皇女は曽爾から逃れ、伊勢の地で殺されたとある。
・・・・大鷦鷯(おおさざき)天皇の軍が、曽爾の山に迫ったとき、皇子たちは草の中に隠れ、急いで国境の山を越えて逃れた。天皇の軍はそれを知って急追し、伊勢の蒋代(こもしろ)野で追いついて二人を殺し、屍を慮杵(いおき)河のほとりに埋めた・・・・。 (日本書紀 仁徳紀)
二人は曽爾で討たれたのか、それとも山を越えて伊勢に入って殺されたのか。記紀は異なる内容を載せるだけで、真相はわからない。風に揺れる丈の高いすすきを掻き分けながら曽爾の谷を歩き、尾根に上って倶留尊(くろそ)山のほうにも少し寄り、銀色のすすきの原を眺めつつ、古代の出来事に思いを馳せた。
近鉄名張駅から曽爾高原行きのバスに乗った。名張から伊勢に至るには、古来青山峠を越える道と、御杖村を通る道があり、曽爾谷はその二つの大きな道の間にあるが、位置からいえば御杖の伊勢本街道のほうに近い。
満員のバスは青蓮寺川沿いに上っていく。青い水をたたえたダム湖が見えてきた。人造湖であるが、静かな湖水に映る山影と木々の紅葉が鮮やかである。ダムを過ぎると峡谷に入り、山道を縫うようにバスは上っていった。思いのほか深く刻まれた峡谷には、ところどころに柱状節理も見られ、直線的な岩と渓流が造り出す景観を、興味深く眺めた。周辺の山の木々は、紅葉が始まっており、眼の覚めるような赤や黄に色づいた木々が、次々流れるように現れては後方に去っていく。やがて太良路(たろうじ)の集落を過ぎると、直立する杉木立の続く山道に入り、名張から約五十分で曽爾高原の入口に着いた。
すすきの原の中をしばらく歩いていく。すすきは人の背丈より高く、前を行く人の姿をほとんど隠すのだった。季節は十一月に入っているので、すでに草原から生命力のある緑は消えて枯れた色が広がり、すすきの穂も銀色にふくらんだまま、吹く風になびいて揺れている。枯れ野の情景もそれはそれで美しいと思うが、寂とした世界である。両手で細いすすきの葉や茎を掻き分けつつ歩いていく。乾いた葉ずれの音と風の音だけを聞きながら黙々と進んでいると、自分が何か人間でないものになって、ひたすら原野の中をさまよっているような感覚に陥るのであった。
視界が開けて、曽爾の谷の全容が現れた。前方には倶留尊(くろそ)山(標高一〇三八メートル)と亀山(標高八四九メートル)がそびえ、二つの山を結ぶ斜面、その山麓全体がすすきの群落で覆いつくされている。正面に広場があり、ベンチも置かれていたので、そこで早めの昼食にする。広がるすすきの波を眺めつつお弁当の後、左手の斜面をゆっくりと上っていく。
遊歩道がつけられているので、歩きやすい。高度が上るにつれ、お亀池(水はない)のかたちが変って見えるのも面白く、気がつくともう尾根に出ていた。風が強く帽子が吹き飛ばされそうである。沢山の人が次々に登ってくる。太良路の集落が遠くに見え、兜(かぶと)岳、鎧(よろい)岳もはっきりと望まれた。その名のように屹立する特徴のあるかたちの山である。眼下にはすすきの穂が重なりふわふわと揺れている。山焼きの痕跡であろうか、斜面が黒くなっている所も見られた。倶留尊(くろそ)山のほうに向かって少し尾根伝いに歩いてゆくが、今日は登山の予定はないので、登りに差しかかった所で引き返す。
尾根に立って遠く伊勢の方角を見つめる。曽爾は大和であるが、この山を越えると伊勢の国であった。倶留尊山の方へ向かえば伊賀の国。古代ではここは国境の山であったのだ。
記紀から少し隼別王と雌鳥皇女の物語をみてみよう。まず古事記から。
大雀天皇(おおさざき、仁徳天皇)は五人目の妃として、異母妹の女鳥(めどり)王を考えられ、媒(なかだち)として弟の速総別(はやぶさわけ)王を女鳥王のもとに行かせた。ところが女鳥王は、皇后石之比売(いわのひめ)の嫉妬を恐れて承知せず、速総別王の妃になった。そのために速総別王は天皇に復命ができなかった。ある日妻どいのため自ら女鳥王を訪れた天皇は、機を織る女鳥王に、誰の着物の材料か、と歌いかけると、
高行くや 速総別の みおすいがね
(空を高く飛ぶ 速総別王の着る 御召し物の材料です)
と女鳥王が歌を返した。その内容で女鳥王が弟の妻になったことを悟った天皇は、そのまま宮に帰られた。別の日に、女鳥王が夫の王に向かって歌った。
雲雀は天に翔る 高行くや速総別 さざき取らさね
(ひばりは、天に飛び翔ります。大空を高く飛ぶ速総別の王よ、さざきを取っておしまいなさいませ)
これを聞いた天皇は軍を興し、二人はともに逃れて倉椅(くらはし)山(桜井市の山)を越えてさらに宇陀の地に逃れ、曽爾で討たれた。
・・・・かれそこより逃亡(のが)れて、宇陀の蘇邇(そに)に到りましし時に、御軍追い到りて殺(し)せまつりき。(古事記)
続きをみてみよう。山部の大楯という将軍が、女鳥王が手に巻いていた玉釧(たまくしろ、腕輪)を奪い取って持ち帰り、自分の妻に与えていた。後に大楯の妻はこれをつけて宴の席に出たところ、皇后がこれを見とがめ、「それの奴や、おのが君の御手に纏かせる玉釧(くしろ)を、膚(はだ)も温かきに剥ぎ持ち来て、おのが妻に与えつること」と言われたので、将軍は死罪になった。(古事記より)
本居宣長「古事記伝」によると、ここで出てくる玉釧とは、腕輪ではなくて、もう少し上につける「ひじまき」のことであるとか。古には優雅な装身具が用いられていたらしい。この皇后の言葉から判断すると、山部の将軍は女鳥王に仕える武人であったことがわかる。女主人を守るべきはずの臣下が背いて主人を討ち、さらに身につけた玉飾りを奪う、という浅ましい行動に出たことになる。
地元の伝承をみてみよう。
曽爾村の大字今井の村役場から見える小高い丘に、速総別王と女鳥王の墓、と伝えられる古墳がある。楯岡山古墳群(全部で三基あり、円墳)といい、曽爾谷を見下ろす位置にある。皇女の墓は崩れて跡をとどめるだけであるが、速総別王の墓は完全な形で残っている。けれどもこれらは豪族の墓という説があり、二人の本当の墓は、少し離れた所にある覆矢(ふや)塚であるという。二人は雨のように降る矢に当たって死んだという。この塚の草花を持ち帰った人がその夜から悪い病気にかかり、「髪の毛を振り乱した女」の夢を見たという。(宇陀郡史より)
曽爾村の伝承では、村役場のある今井集落近くの山麓で、二人はたくさんの矢を身に受けて死んだというのである。しかも矢を放ったのは、皇女の臣下である山部の大楯、という将軍であった。もしかすれば、皇子と皇女を逃がすために敵をあざむき、年恰好の近い舎人と侍女をそれらしく装わせ、身代わりに殺したとも考えられるが・・・・。そうやって時間を稼いでいる間に、皇子たちは僅かな人数で山を越えていったのだろうか。山部の大楯が忠義の臣であったのか、それとも仕える主君を殺した裏切り者であったのか、今となってはもう知りようもない。
次に日本書紀の記述を見てみよう。
大鷦鷯(おおさざき)天皇は雌鳥皇女を妃にしようとして、隼別皇子を遣わしたが、皇子がこっそり自分のものにしてしまい、復命しなかった。天皇が自分で雌鳥皇女を訪ねられたとき、機織女たちが歌う歌で事情がわかり、恨みを持たれた。別の日に皇子の舎人たちが歌う「さざき取らさね」という歌を聞いて天皇は怒りを発し、皇子を殺そうと思われた。皇子は皇女を連れて伊勢神宮に逃げようと走った。皇后(磐之媛はすでに亡くなっていて、雌鳥皇女の姉の八田皇女が皇后になっている点が、古事記と異なっている)が、皇女の身をあらわにしないでほしい、といわれたので、天皇は追討軍の将の雄鮒(をふな)、阿俄能胡(あがのこ)二人に対し、皇女の足玉、手玉を取るな、と命じられた。
・・・・雄鮒(をふな)等、追ひて菟田(うだ)に至りて、素珥(そに)の山に迫(せ)む。時に草の中に隠れて、わずかに免(まぬかる)ること得(う)。すみやかに走(に)げて山を越ゆ。(日本書紀 仁徳紀)
二人は丈の高い草に隠れて、曽爾から山越えで逃げたというのである。皇子はそのときに歌を詠んだ。
是に皇子、歌(うたよみ)いはく、
梯立(はしだて)の険(さが)しき山も和妹子(わぎもこ)と 二人越ゆれば安蓆(やすむしろ)かも
(はしごを立てたような険しい山も、和妹子と二人で越えれば安らかなむしろに坐っているように楽なものだ)
・・・・ここに雄鮒ら、免(まぬか)れぬることを知りて、すみやかに伊勢の蒋代野(こもしろの)に追ひ及(し)きて、殺しつ。時に雄鮒等、皇女の玉を探りて、裳(も)の中より得つ。すなはち二(ふたり)の王(みこ)の屍(かばね)を以て、慮杵河(いほきがわ)の辺(ほとり)に埋(うず)みて、復命す。(日本書紀 仁徳紀)
二人が曽爾から逃げたことを知った追討軍は、急いで追いかけて伊勢の蒋代野で追いついて殺し、慮杵河のほとりに埋めたが、皇女から玉を奪い取っていた。
本居宣長は、このように言っている。
・・・・この王たちが行った道は、蘇邇(そに)から一志郡の家城村を経て、川口に至る道のようである。慮杵(いおき)河は雲出(くもず)川の上流で、川を隔てて北家城村、南家城村があり、北家城村の辺りで石を畳んで造った窟(いわや)があって、里人は、夫婦窟(めおといわや)という。これがこの二王の墓だろう。(古事記伝)
一志郡の伝承もみてみよう。
それによると、二人は雲出川中流の瀬戸ケ淵(白山町)で殺されたという。その近くには夫婦窟があるそうだ。殺された二人の首はもつれ合いながら雲出川をさかのぼり、八知から柳瀬を経て美杉村川上の地で拾われ、若宮八幡宮(祭神は仁徳天皇、磐之媛命)に祀られたという。
何か不気味な伝承で怖いのだが、おそらく首は追討軍が持ち運んだのであろう。古では皇軍が敵を討伐する場合、敵将の霊の蘇りや祟りを封じるため、胴体と頭部を切り離して別々の場所に葬ることが行われたようである。(吉備津の温羅、紀国の名草戸辺などの例がある)非業の死を遂げた人の霊は、放置すると恨みから生者に祟りをなすが、丁寧に祀ることによって鎮まるとされた。
この一志郡の伝承も、そういう古の呪術的な発想にもとづく葬送の様子を表現しているかと考えられる。二人の胴体は窟に置いたのだろうが、霊魂のこもる頭部は別に葬地を求め、桶や籠などの容器に入れて、舟でさかのぼっていったのであろう。川の上流で水縄延え(みなわはえ、縄を川に流して吉凶をみる、あるいは薪を流して占う)、などの水占を行うか、あるいは直接首を川に流し、留まった地を埋葬地と定めるなどしたのではないか。それを垣間見ていた里人の目には「二人の首がもつれ合いながら」「川上の地で拾われて」と映ったので、そう伝承されているのではないだろうかと思う。
再び日本書紀に戻ることにする。
大和に戻った追討軍の雄鮒(をふな)たちは、皇后から皇女の玉のことを訊かれると「見ませんでした」と返答した。けれども実際には玉を奪い取って、自分の妻たちに与えていたのだった。後に皇后が、宴席で阿俄能胡(あがのこ)の女たちがつけている皇女の玉に気づき、糾問の結果、悪事が発覚した。死罪になるところだったが、私有地を差し出すことで罪を許され、その地は玉代(たまて、河内の玉手山か)と呼ばれたという。(日本書紀 仁徳紀)
往時は、たとえ貴人であっても、重罪人であれば、殺してからその持ち物や衣類などを取ってもよいとされていたらしい。そしてこの場合、禁じられたにもかかわらず、追手の軍士は玉を持ち帰って妻に与え、妻のほうも、それを家で眺めているだけでは満足できず、身につけて目立つ場に出て自滅するのである。
古代では、玉は高価で美しい装飾品であっただけでなく、それを身につけた人を守る護符でもあった。貴人が耳に玉を下げ、首にかけ、手足に巻くのは、そこから悪霊が侵入するのを防ぐ意味もあったという。皇女は手や足に巻いていたのであろう。そして玉は女主人を護ることができなかったが、後日その玉がきっかけになって、皇女に直接手をかけた者の仇を討つかたちになっている。この後半部分の逸話は、玉にまるで何かの力が働いたかのように、玉が女主人に代わって報復をとげる話、とも読むことができるだろう。
風が強くなってきた。尾根から降りお亀池のほうへと回り、池の周囲を巡っていく。池に水はないのだが、全体に湿地になっており、わずかに水のたまった沼の部分も見られた。枯れた草が直立し、風にそよぐ静かな草原の情景は、音のない死後の世界に来たような寂しさに包まれている。
一方で山の斜面を見ると、かなり急傾斜であった。梯立ての険しき山も、と皇子が歌ったように、まさしく梯子を立てたような印象なのである。この歌は、険しい山に差し掛かったとき、無事に越えられることを神に願いつつ詠んだ歌のように思われる。そう歌うことによって、良い現実を引き寄せようとしたのであろう。歌に籠る呪力が期待されたのだと考えられる。二人は曽爾の、(どことは特定できないが、ここかもしれない)険しい山を越え、伊勢を目ざしたのだろう。
集落への道を下っていく。林の中に刻まれた自然道をたどると、そこはすがすがしい杉の香の漂う道であった。
鳥の人物名が多く登場するのもこの逸話の特徴と思うが、その時代、王権にかかわっていた氏族が、鳥と所縁の深い伝承の祖を持っていたからかもしれない。天皇の名のおおさざきであるが、さざきとはみそさざいのことであり、はやぶさ、めどり、と登場人物の名が鳥に因んでいるのも興味深い。記紀には、仁徳天皇誕生の折、産屋に木菟(みみずく)が飛び込んだとある。同日に臣下の武内宿禰の妻も出産し、みそさざいが産屋に飛び込んでいた。これを吉兆とみて、赤子の名を取り替えたというのである。宿禰の子は木菟宿禰(つくのすくね)と呼ばれた。敗者の名の献上は服属の証であるが、名の交換は、生涯の絆や友情のしるしとされているそうである。
みそさざいは小さな鳥だが、賢くて勇気があり、アイヌの伝承には、みそさざいが知恵を働かせて悪い熊の耳に飛び込み、攻撃して退治した話があるそうだ。(ヨーロッパにもみそさざいは鳥の王という話があるという)
古代では、白鳥は異世界と現世を行き来する鳥とされていたそうである。白鳥に限らず、大空を舞う鳥は、聖なる力を持つと考えられることもあったろうし、そのような鳥の持つ霊力を身に授かることを願って、子に鳥の名をつけたのかもしれない。
鳥はその氏族の象徴や守護霊とされ、神聖視されることもあったかと思われる。鳥の氏族として有名なのは鴨氏、八咫烏(やたがらす)の一族であろうか。人の名前では建比良鳥(たけひらとり)、天日鷲命(あめのひわしのみこと)、根鳥皇子(ねどりのおうじ)、また和爾(わに)氏など、魚類、また動植物由来の名も多く思い浮かぶ。
少し政治的背景もみてみよう。
仁徳天皇の父、応神天皇には多くの皇子があり、後継争いも熾烈だったようである。晩年の応神天皇が、愛情を注ぎ皇太子に指名したのは、菟道稚郎子(うじのわけいらつこ)皇子(和珥氏系)であった。立太子に納得できなかった異母兄の大山守(おおやまもり)皇子は、天皇が亡くなると兵を挙げ、菟道稚郎子皇子を攻めようとした。大鷦鷯皇子がそれを察知して菟道稚郎子皇子と協力し、皇太子が渡し守に扮して待ちうけ、船を傾けたので大山守皇子は宇治川に沈んだ。
その後、菟道稚郎子皇子と大鷦鷯皇子は、三年にわたって皇位を譲り合い、結局菟道稚郎子皇子が自殺して(暗殺説もある)妹の八田皇女を献上し、大鷦鷯皇子が皇位について仁徳天皇となった。
仁徳天皇は国見をした折、民家にかまどの煙が立ちのぼらないのを見て憂い、税を三年免じた聖帝といわれている。簡単に皇位に上ったのではなく、兄弟間の激しい抗争が展開された末、勝ち取った皇位だったようである。
仁徳天皇の皇后には磐之媛(父は葛城襲津彦、軍事将軍としても名高い)が立った。三人の皇子を生んでおり、磐之媛の死後は八田皇女が皇后になっている。八田皇女は菟道稚郎子皇子の妹である。雌鳥皇女は八田皇女の妹。ちなみに隼別皇子は桜井田部連系(物部氏の系統)である。
天皇には即位後も有力な後継候補の異母弟の皇子たちが多くいて、皇位は決して安泰ではなかったのであろう。隼別皇子と雌鳥皇女の謀反も、妻争いの話となっているが、天皇側からみれば、治世を安定させるため、反勢力を良い機会に排除してしまいたかったのではなかろうか。雌鳥皇女は、謎の死をとげた菟道稚郎子皇子の妹にあたる。雌鳥皇女と隼別皇子が結びつけば、その実家の和珥氏と旧勢力の桜井氏は、結束を深める。先手を打ち二人を謀反人として断罪したことで、有力氏族と旧来の一族の力を事実上つぶしたかたちになっている。
皇后の磐之媛の視点からも考えてみよう。
磐之媛には三人の皇子があった。後の履中、反正、允恭天皇である。(息子が三人までも続いて天皇になっている例はほかに知らない。もっとも允恭天皇は磐之媛の生んだ子ではないという説もあるが)
隼別皇子の事件が起きた時点で、磐之媛には皇子が何人いたのかはわからないが、すでに三人あったとして、皇后は母親として、自分の子どもたちが皇位につくのを、切に願っていたことであろう。磐之媛の父親は有力な豪族の葛城氏で、彼女自身は皇女ではない。位の高い八田皇女がもし仁徳天皇との間に男子をもうけると、その皇子が後嗣となる可能性が高くなる。またもし政権が覆って隼別皇子と雌鳥皇女が皇位につくことになると、雌鳥皇女が生む男子が皇位に上る可能性が高くなるのである。
皇女たちが天皇の子を生むことを、何としても磐之媛は阻止したかったと思われる。自分の子を即位させることが、やはり皇后にとっては大きな関心事であったろうから。わが子の競争相手は少ないほうが有利である。
磐之媛は感情の起伏が激しく嫉妬深い皇后としても知られ、天皇も皇后の嫉妬には困っていたように書紀には記述されている。夫への愛情が深かったのであろうが、母性もまた強かったのではないだろうか。
神事に使う御綱(みつな)柏の葉を採るため、皇后が紀国に出かけている間、天皇が八田皇女を召して妃にしたことを知ると、磐之媛はせっかく採ってきた柏の葉を海に捨て、嫉妬から船を返して川をさかのぼり、綴喜郡の渡来人の家に滞在(田辺町か)、決して難波に戻ろうとしなかった逸話は有名である。普通はこうした場合、実家に戻るものであるが、なぜ実家のある葛城でなく、綴喜郡だったのか。ずっと疑問に思っていたが、今回改めて考えてみると、おそらくはその位置こそが重要だったのであろう。
綴喜郡は和珥(わに)氏の本拠である近江、宇治と、桜井氏の地元である三輪の両方の動向を把握できる位置にあった。仁徳天皇の営んだ高津宮はこのとき難波(大坂城付近、あるいは生国魂神社あたりか)にあり、もしここを隼別皇子と雌鳥皇女の反乱軍、つまり宇治と三輪の連合軍が攻撃するとしたら、兵はそれぞれの本拠地から闇に紛れて桂川、宇治川、木津川を一気に船で下り、淀川で合流して難波に押し寄せるのが、一番速く効果的であったろう。隼別皇子の謀反は、おそらく皇后がしばらく都を留守にしたために警備の兵も手薄となり、天皇が若い皇女たちに関心を持って心に油断も生じていた、まさにその時期に起きようとしていたのではないか。
そういう有事を想定した場合、兵の動きを牽制し監視するつもりなら、皇后が実家の葛城に引っ込んでしまったのでは、入る情報も遅れ、意味がないのである。綴喜郡にいれば、仮に隼別皇子がどこかへ舟を使って逃れようとする場合、退路を断つことにも役立つ。そして結局隼別皇子と雌鳥皇女のとった逃走経路は、おそらく生駒越えで大和に入り、実家の桜井を経て音羽山を越え、宇陀へ出たものと考えられる。
皇后が綴喜郡に行ったことは、皇后の嫉妬の逸話として語られているし、またそれを否定するものでもないけれど、反乱を警戒し、懸念を感じた皇后なりの軍事行動の一環と解すれば、納得はいく。
とりとめのない空想にふけっているうちに、午後の時間が過ぎていった。
帰路につくことにする。曽爾高原の入口から駅へ戻る最終バスは二時過ぎで、すでにそれは出てしまったので、別の路線の最終バスが通る太良路のバス停まで、高原から一時間近く歩くことにした。
途中、町営施設に立ち寄り、喫茶室でコーヒーを飲んで休憩、(近鉄の往復割引切符についていた無料ドリンク券をここで使用)施設を出て、再び下り始める。歩くにつれ兜岳、鎧岳の二つの山が近づいてきた。実に堂々とした立派な山容で、とくに鎧岳は屏風のようにそびえ立ち、何度となく仰ぎ見、その威容はいくら見ても見飽きないのであった。
太良路の最終バスには間に合った。同じような道筋で歩いて降りてきたらしい人たちが数人おり、夕暮れが近づいて冷たくなってきた風の中でバスを待っていた。
朝の満員バスの人数を思い浮かべてみる。大半の人たちは、二時過ぎの最終バス(臨時の増便もあったようだが)でもう早々と帰路についてしまったのだろうか。そうとしか考えられないが、もう少し高原に長くいて風景を楽しみたいと思う人にとっては、曽爾のバスは本数も少なく最終バスの時間も早すぎたのが少々残念であった。