一明日香村を歩く一
多武峰 談山神社 気都倭既神社 ミハ山
一明日香村を歩く一
多武峰 談山神社 気都倭既神社 ミハ山
延喜式の祝詞「出雲国造神賀詞」に出てくる飛鳥の神奈備山とはどこなのだろうか。甘樫丘、雷丘、南淵山、鳥形山、などいくつもの候補地があるというが、最近では祝戸(いわいど)地区にあるミハ山(岸俊男説)が有力という。山頂に磐座らしいものがあり、ミハ山の読みはみわやま、大神神社のある三輪山と同じ読みだそうだ。ただこちらのほうは三輪山と違って山麓に神社はないそうである。
飛鳥の神奈備山ともいわれるミハ山を訪ねてみることにした。明日香村を訪れるのは久しぶりである。紅葉で知られる多武峰の談山(たんざん)神社を散策してから祝戸へと回り、ミハ山を経て石舞台のほうへ降りてみることにした。
多武峰 談山神社
桜井駅から談山(たんざん)神社へのバスに乗った。勤労感謝の日、行楽日和なので随分混んでいて、どうなることかと思ったが、途中でたくさんの人が降りていった。ハイキンググループの人たちであった。横で話を聞いていると、不動の滝から山道を上り、談山神社を目指すらしい。随分昔のことだが、石舞台から多武峰まで歩いたことがあったのを懐かしく思い出していた。車窓から色づきはじめた山の紅葉を眺めているうちに、バスは屋形橋を過ぎ、さらに上って談山神社に近づいていった。
月輪に大きく梵字を刻んだ印象的な摩尼輪塔が一基、参道の道端に建っている。鎌倉時代の作で珍しい造り、まるで顔に一字を刻んだ人がそこにたたずんでいるような感じがする。紅葉の木々の間にも古色蒼然とした石灯籠が立ち、これも鎌倉時代のもの、後醍醐天皇の寄進と伝えられている。立ち並ぶ苔むした石灯籠の列を眺めながらゆるい上り坂の参道を進んでいった。
談山神社の祭神は藤原鎌足公。社号の由来は、法興寺(飛鳥寺)の蹴鞠会(けまりえ)で知り合った中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌子(藤原鎌足)がともに南淵請安の塾で学ぶうちに親交を深め、当時権力を振るっていた蘇我氏打倒をはかるため、多武峰に上って相談をした。そこが後に談い山(かたらいやま)と呼ばれたことに由来するという。
六四五年、飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿が殺され、その翌日、父の蝦夷も甘樫丘にあった邸宅に自ら火を放って一族とともに死んだ。乙巳の変である。これによって蘇我宗本家は滅亡、政治の実権は中大兄皇子、鎌足らの手に移っていった。
大化の改新、百済救援、白村江での敗戦、近江遷都・・・・常に天智天皇の側にあってその政治を長年にわたって支え続けた鎌足も、近江での狩猟で落馬した折の傷がもとで、その生涯を終えた(六六九年)。それは壬申の乱が起きる三年前のことであった。死の直前には、天皇から藤原の姓と大織冠が授けられた。
鎌足の息子で留学僧だった定慧(じょうえ)が帰国し、摂津国安威の阿武山に葬られていた父鎌足の墓を、ゆかりの深い多武峰に移したのがこのお社の起源で、その折に十三重の塔も建立されたと伝えられる(六七八年)。明治の神仏分離令により、現在は談山神社となっているが、元は妙楽寺という寺院だったそうだ。
摂津の阿武山には、(エックス線撮影や副葬品などにより)鎌足が被葬者であると思われる武人の古墳が存在し(阿武山古墳)、多武峰に改葬したという説には疑問もある、といわれているそうだ。神社ホームページによると、定慧が遺骨の一部を大和へ持ち運んで多武峰におさめたとされる。
談山神社の境内には、定慧が唐から持ち帰ったとされる菴羅(あんら)樹の木が植えてあった。カリンの原種といい、芳香を放つという。実は枝に少し残っていたが、小ぶりで卵形、黄色味を帯びた色をしており、香りはわからなかった。樹の横には折口信夫の短歌が添えてあった。
人過ぎて思ふすべなし。伝え来し常世(とこよ)の木の実 古木となれり
折口信夫
本殿はあいにく改修中でシートがかかっており、ご神体は権殿の中とのことなので、そちらで手を合わせる。畳敷きの拝殿内では多武峰縁起絵巻が展示されていた。長い絵巻である。鎌足の生い立ち、蹴鞠の場面、多武峰での談合、板蓋宮での入鹿誅殺へと有名な逸話や出来事が絵解きで語られていく。たくさんの人が熱心にケースの中の絵巻を見つめていた。見終わったあとは廊下に出て優雅な吊り灯籠を眺めた。
外へ出て紅葉の樹々を背景に立つみごとな十三重の塔を見てから、鎌足の正妻で鏡王女(かがみのおおきみ)を祀る東殿へと境内を回っていった。鏡王女は天智天皇の妃のひとりであったが、のちに鎌足の妻になった。王女と呼ばれる身分の女性が、臣下の妻になったのは珍しいという。天皇が寵臣であった鎌足に与えたのであろう。鏡王女は不比等を産み(不比等の実父は天智天皇という説もあり、そうなると不比等は天智系の皇子ということになるが)、万葉歌人としてもすぐれた歌をいくつか残している。
秋山の木(こ)の下隠(がく)りゆく水の 我こそまさめ思ほすよりは
神なびの石瀬(いわせの)の杜(もり)の呼子鳥 いたくな鳴きそわが恋まさる
鏡王女
鏡王女は額田王と姉妹とも、そうでないともいわれ、また舒明天皇の皇女という説もあり、謎に包まれた人である。鎌足の病平癒のため、興福寺の前身になる山階寺を建立したと伝えられている。
東殿の近くには、むすびの岩という磐座があり、注連縄がかかっていた。縁結びに通じるというので、若い女性が次々来ては岩に触れていく。また権殿の横には細い流れが岩を伝い落ちており、そこに龍神社が建っていた。滝であるのでそこは古の聖所と思われる、静かな空間であった。そこからさらに山道を進めば、中大兄皇子と鎌足が相談したというかたらい山や、御破裂山へとつづいていくようである。
御破裂山(六一八メートル)には鎌足の尊像が祀ってあり、天下大事の前には像が破裂し、山が鳴動して変事を知らせるということであった。像にひびが入るとか、裂けるのであろうか。山が鳴動するとは、地震などの折の山鳴りをいうのかもしれない。
上ってみたい気もするが、今日の行程の都合もあるし、御破裂山には向かわずここから下山することにする。鳥居を出て茶店で湯気の上るこんにゃくを柚子味噌味でひと串求め、暖まったところで歩きはじめる。
神社の西門跡を出て下っていく。碑があり、女人禁制と刻んだ石柱があった。明治の神仏分離令によって、妙楽寺は談山神社と名を変えたが、そのときに女人禁制の掟も解かれたのだという。知らなかったが、ここは長く女性が入れない地だったのだ。
山道は途中、県道によって分断されていたが、県道を離れると再び落ち葉を踏んでいく静かな道が続いていった。冬野川ぞいに黄色い実をつけたカリンの木があったのでしばらく眺める。そこは上(かむら)という集落で、集落内を歩いてみるが誰にも会わない。竹やぶが広がり、その背後には山が迫っていた。
気都倭既神社
古いお社があったので立ち寄ってみた。気都倭既(けつわき)神社という珍しい名であった。由緒書を読むと、乙巳の変のとき、切り落とされた入鹿の首が宙を飛び、鎌足を追いかけたという。鎌足はここに逃げ込んで、ここまではもう来ぬだろう、と言ったので、社殿の森を「もうこの森」と呼ぶそうである。
村の鎮守という雰囲気のある社であった。古の森はもっと深かったであろう。半ば地に埋もれた磐座らしいものが社殿右手の奧に見えている。社殿は樹木に覆われており、鎌足が腰をかけたとされる石も境内にあった(実はそれらしいものがふたつあり、どちらかわからなかった)。耳にしたことのない祭神名であるが、けつわき神とは土地の神の名であるらしい。首の逸話はこここが聖地であるため、神威をおそれ入鹿の霊もここには近寄れなかったという意味なのだろう。森のどこかに結界があって、追ってきた入鹿の首も、血の穢れを忌む神域には入れなかったということであろうか。
ミハ山
冬野川に沿って下っていく。道は緩やかである。ほどなく前方に祝戸地区のミハ山が見えてくる。飛鳥川を渡って、宿泊研修所「祝戸荘」の建物のあるほうに回る。ミハ山は、地元ではフグリ山というそうである。山の形をそう見立てたのだろう。見たところミハ山は、山というよりは横になだらかに広がった丘で、いわゆる円錐形に整った山ではない。山の入り口にはマラ石と呼ばれる陽石があった。豊穣信仰の石造物で、フグリ山と一対になっているもの、と説明板にあり、明日香村には多く見られる古代の呪物である。
進んでいくと「飛鳥稲渕宮殿跡」の石碑があった。山麓に建てられた宮の跡である。乙巳の変後、皇極天皇は退き、異母弟の孝徳天皇が即位して難波(長柄豊碕宮)に都を遷したが、六五三年、中大兄皇子は都を大和に戻すように提言、これを退けた天皇を難波に残したまま、おもだった王族の人たちを連れて大和に帰ってしまう。失意のうちに孝徳天皇は翌年病を得て亡くなり、皇極天皇が重祚して斉明天皇となった。
中大兄皇子らが難波から大和に帰ったときに住んだ仮宮、飛鳥河辺行宮がここではないかといわれている。発掘調査後は埋め戻されているので、遺構などは何もなく、静かに均されたように草原が広がって雑草が風に揺れ、道端にはまるで墓標のように碑が一基立っているのみであった。
ミハ山に入っていく。正面に整備された階段があり、ここを上ることにした。途中にも大きな岩が散見できるが、休憩所や道は公園風になっていて、斜面の樹木もかなり伐採したらしく古の雰囲気は失われてしまっているようだ。
頂上近くには磐座が見られた。わりに大きな岩の塊である。特に古を思わせるような祭祀跡や社、祠などは見当たらない。展望台には石に金毘羅神の名が刻まれて祀られており、それはかなり後世のものと思われた。
山頂からは明日香村がよく見渡せた。耳成山、香具山もはっきりと見え、遠く生駒、信貴の山並みも望まれる。ここで飛鳥の神奈備、ミハ山説について少し考えてみよう。
延喜式の祝詞「出雲国造神賀詞」(いずものくにのみやつこのかむよごと)は出雲の国造が代替わりのたび大和に来て天皇に奏上する祝詞である。宝物(玉など)や出雲の産物を献上しこの祝詞を捧げるので、服属儀礼とも復奏儀礼ともいわれている。その一部を紹介すると・・・・
・・・・大穴持神の申したまはく「皇御孫命の鎮まりまさむ大倭の国」と申して、己の命の和魂(にぎたま)を八咫(やた)の鏡に取りつけて、倭の大物主くしみかたまの命と名を称えて、大御和(みわ)の神奈備に坐せ、御子の阿遅須岐高孫根(あじすきたかひこね)神の御魂を葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主神の御魂を宇奈提(うなて)に坐せ、賀夜奈流美(かやなるみ)命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇御孫命の近き守り神として貢り置きて、八百丹杵築の宮に鎮り坐しき。
(大国主の命が「皇孫の鎮まります国は大倭(おおやまと)の国です」と申し上げて、自分の和魂(にぎたま)を八咫の鏡によりつかせて、大物主と名を唱えて三輪の社に鎮め坐せ、御子のあじすきたかひこね神の御魂を、葛城の鴨の社に坐せ、事代主(ことしろぬし)の神の御魂を宇奈提(うなて)に坐せ、かやなるみ神の御魂を、飛鳥の社に坐せて、皇孫の守護神として貢りおいて、ご自分は八百丹杵築(きづき)宮に鎮座されました)
大国主命が天孫への国譲りに際し、自分の和魂(にぎたま)を三輪山に鎮め置き、自分の子どもたちの御魂もそれぞれ大和を囲むような位置に鎮め置いて、皇孫の守り神とすることを誓い、自分は出雲杵築宮に退去した、という内容である。(この文面からみると国譲りは大和で行われ、大国主命は大和を領有していたことになる。国譲りは出雲だけでなく、おそらくは各地で起きた出来事だったのであろう)
大物主が祀られたのは桜井市の三輪山、大神神社
阿遅須岐高孫根神は葛城の高鴨神社
事代主神は橿原市の河俣神社
とそれぞれ比定されているが、飛鳥に祀られたという賀夜奈流美神の社だけがどこなのか、わからないのである。かやなるみ神については、男神とみる説、阿遅須岐高彦根神の妹の下照姫神説、事代主神の妹の高照姫神とする説などがある。
奧飛鳥の栢森には、賀夜奈留美神社がある。ここは石上神社宮司であった富岡鉄斎(明治・大正期の人)が復興したという。飛鳥ではかやなるみを祭神とする神社は、栢森と鳥形山の麓の飛鳥坐(あすかにいます)神社の二箇所のみといい、飛鳥坐神社では、かやなるみ神は飛鳥神奈備三日女神と表記されているという。
栢森は飛鳥の最も南に位置しており、当時の都のあった場所からは見えないので、神奈備とするには離れすぎているとする説もある。今でも栢森はほとんど人が歩いておらず、清らかに飛鳥川が流れゆき、四季の自然が美しい地である。
「日本紀略」によれば、八二九年、飛鳥神奈備山の社は、神託により鳥形山山麓の飛鳥坐(あすかにいます)神社に遷坐したとある。どこから遷座したかについても、雷丘から、甘樫丘、栢森、ミハ山、と諸説あって判然としない。栢森の伝承によれば、社殿は鳥形山に遷っても、かやなるみ神の神霊は、旧社地の栢森になおとどまったとされる。
飛鳥神奈備を巡っては従来、甘樫丘、雷丘が有力であったらしいが、近年になってミハ山説が注目されているという。
ミハ山は飛鳥を見おろせる位置にあり、眺望はすぐれている。飛鳥内からもこの山はよく眺められたことだろう。頂上には磐座らしいものが存在するため、万葉集にうたわれる「神丘」とみなす根拠になっているのだと思われる。
けれども神賀詞の「飛鳥神奈備の地」という視点からみれば、ほかの神奈備にあってここにはないのが「神社」であろうか。もしミハ山を飛鳥神奈備とみるのであれば、山麓か山頂に古社か祠かその痕跡、せめて祭祀伝承、くらいは残っているのでは、と思ってしまう。
「出雲国造神賀詞」に繰り返されているように、都を護る要所に四柱の神々の「御魂を鎮め座せた」のなら場所を選んだわけで、そこには山や森、神のよりつく岩や高い木、きれいな川、泉などがあったと思われるが、また祠や社も建てて、代々人が仕え神霊をお祀りしていたはずと考えられる。
ほかの三箇所の神奈備の三輪、雲梯、葛城には古い伝承を持つ神社があり、それぞれの神が長く祀られてきたのと比べ合わせると、ミハ山には磐座こそあるものの、祭祀伝承も、神奈備にまつわる古社の影も見当たらないことが気になる点である。
しばらく眼下に広がる明日香村を眺めていた。ここにもかつては由緒あるお社が造営されたのに、時代を経るうちにいつか社殿も消失し(災害、遷座などにより)、神奈備山の言い伝えもその記憶も絶えてしまったのだろうか。
展望台から階段を玉藻橋のほうへと降りていく。歩きやすい道ではあるが、このような自然公園に整備する段階で、多くの樹木は伐られていったのだろう。山に木が少ないのはほんとうに残念なことである。
表面上は近代的な公園風に変貌してしまったミハ山。現代のこの情景の中に、古代の飛島神奈備山としての聖性を見出すのはもはや難しいだろう。けれどもわずかにフグリ山(地元に伝わる呼称)、豊穣祈願のマラ石、山頂の磐座群に、古の人々の信仰の面影がみられるようにも思われる。私にはミハ山は、もっと遠い古層の信仰の痕跡が色濃いように感じられた。