一勾玉の島一
伊弉諾神宮(淡路一宮) 成ケ島 沼島
一勾玉の島一
伊弉諾神宮(淡路一宮) 成ケ島 沼島
昨年京都から引っ越してきて、淡路島が近くなった。時折薄らぼんやりと海の向こうにそれらしい島影を目にすると、じっと眼を凝らしてしまう。眺めていると何だかいつでも行けそうに思えてくる。
淡路島を初めて訪れたのは、中学校一年のときの臨海学校であった。洲本の大浜海岸に数日間滞在した。小学校にはプールがなかったので、私はまったく泳げなかったが、このときの水泳訓練のおかげで平泳ぎを覚えた。
ちょうど地元の夏祭りで大きな花火大会が開催され、先生や友達と砂浜に座って、打ち上げ花火を見た。どーんという音とともに次々と海上に上がる大輪の花火にうっとりと見とれ、時の経つのを忘れた。本格的な打ち上げ花火を見るのは初めてで、それこそ夢のようなひとときであった。その晩は夜空に開いていく巨大な花火の残像がちらついて眠れず、頭の中ではいつまでも炸裂音が鳴り響いていた。
その翌年、転校先の学校のクラス行事で再び淡路島に行った。このときは浦というところに泊ったのだが、いったいどの辺りだったのか、今になってみるとどうしても思い出せない。地図を出してきて探すと、それは北淡の東浦町にあった。考えてみると、淡路島に泊まったのはこの二回だけで、あとは四国に行くときに高速バスで通過するのみであった。
伊弉諾神宮
今回の旅は淡路一宮の伊弉諾(いざなぎ)神宮を訪れてから、成ケ島に立ち寄って離島の沼島(ぬしま)へ渡り、そこで一泊、徒歩で沼島を一周する予定である。沼島は国生み伝説に出てくる「おのころ島」であるといわれている。神話の世界を辿りつつ、古代遺跡などもあればそれらを巡ってみたいと思う。
早朝三宮発の高速バスに乗った。舞子を経て明石海峡大橋を渡っていく。神戸の町並みが見る見る後ろに小さくなっていく。淡路島に入り、尾崎というところで降り、路線バスに乗り換えて一宮に着いたのはまだ九時前であった。伊弉諾神宮は思っていたよりも内陸部にあった。
緑がすがすがしい境内を歩いていくと、右手に一本の根から幹が二つに分かれて茂っているように見える不思議な形の大楠があった。元は二株であったらしい。大楠神社とあって樹齢は九百年、見上げると梢ははるか上のほうにある。朝の冷気の中、さまざまな小鳥のさえずりが降ってくる。
正面本殿の中には、これまで参拝された皇室の方々の名が連なっていた。ここは天照大神の親神の宮に当たる。祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)である。
少し神話の世界を見てみよう。
・・・・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の二神が天の浮橋に立って、海上を沼矛(ぬぼこ)で掻き回して引き上げると、その矛先から滴った塩が凝り固まって「おのころ島」ができた。
二神は降り立って大きな柱の周りを巡って婚姻の儀式をし、淡路島をはじめ四国や九州、本州など日本の主な島々、山や海などの自然界の神々を生んでいった。
けれども伊弉冉尊は火の神、軻遇突智(かぐつち)を生んで亡くなってしまった。伊弉諾尊は妻を追って黄泉の国に行き、火を点して変わり果てた妻の姿を見てしまう。伊弉冉尊は怒って黄泉醜女(よもつしこめ)に後を追わせるが、伊弉諾尊は身につけていた蔓草の髪飾りや櫛、桃の実を次々投げて難を逃れ、ようやく元の地に逃げ帰った。
そしてこの世とあの世の境である黄泉比良坂で、大岩を置いて道を塞ぎ、追いついてきた伊弉冉尊と岩を挟んで互いに言い争う。そこで事戸渡し、つまり夫婦絶縁の言葉を交わした・・・・。古事記の原文を少し引用してみることにする。
伊耶那美(いざなみ)の命のりたまはく、
「愛(うつく)しき我が汝兄(なせ)の命、かくしたまはば、汝(いまし)の国の人草、一日(ひとひ)に千頭(ちかしら)絞(くび)り殺さむ」
ここに伊耶那岐(いざなぎ)の命、詔(の)りたまはく、
「愛しき我が汝妹(なにも)の命、汝(みまし)然(かく)したまはば、吾(あ)は一日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)を立てむ」
(いざなみが言われた。あなたがこんなことをされるのなら、私はあなたの国の人を、一日に千人殺してしまいます。いざなぎは言い返した。あなたがそうされるのなら、私は一日に、千五百も産屋を立ててみせる)
日本書紀のほうには、このくだりはもう少し詳しく載せてあって、
「何ぞ要(ちぎ)りし言(こと)を用いたまはずして、我に恥辱(はじ)みせます」
「汝(いまし)すでに我が情(あるかたち)を見つ。我、復(また)汝が情を見む」
「族(うがら)離れなむ」・・・・「族(うがら)負けじ」
(どうして覗き見して下さるなという約束を守らず、私に恥をかかせるのです。あなたは私の本当の姿を見てしまいました。私もあなたの本当の姿を見ましょう。
もう縁を切ろう・・・・お前には負けないつもりだ)
という風に応酬が続いていく。若い日におのころ島で互いに褒め言葉を掛け合い、多くの国々を生んでいった夫婦神であったのにもかかわらず、年月を経てこのような激しい言葉をぶつけ合った末、別離を迎えるのである。この場面を読んでいると、何だか苦く寂しいものが心をよぎっていく。
大岩で塞いだ黄泉比良坂とは、書紀によれば、出雲の八束郡にある山中の坂のことだそうであるが、書紀の続きを読んでみると、
「また別(こと)に処所(ところ)有らじ、ただ死(まか)るに臨みて気(いき)絶ゆる際(きわ)、是を謂(い)ふか」
つまり特定の場所を指すのではなくて、いまわの際に人の心の中に投影されるものをいう、と解釈がなされていて興味深い。
黄泉の国に下った妻、伊弉冉尊の葬地は、熊野の有馬村であるという。
「火神を生む時に、灼(や)かれて神退去(かむさ)りましぬ。紀伊の国の熊野の有馬村に葬(はぶり)まつる。此の神の魂(みたま)を祭るには、花の時にはまた花を以て祭る。また鼓(つづみ)吹(ふえ)幡旗(はた)を用(も)て、歌ひ舞ひて祭る」
三重県熊野市の海浜にある花の窟という巨岩で、今も神官や村人によって女神に花を供える古来の祭りが行われているという(花の窟神社)。一方夫の伊弉諾尊のほうは、
「神功(かむこと)既におえたまひて、あつしれたまふ(熱が出て、病が重くなる)。幽宮(かくれみや)を淡路の州(くに)に構(つく)りて寂然(しずか)に長く隠れましき」
男神は、神の仕事をすべて終えて永眠したというのである。葬送の地は淡海(近江)という説もあるそうだが、ここでは淡路説に従う。それによれば、この淡路一宮である伊弉諾神宮がその墓所とされている。
周囲をくまなく見回すが、はっきりそれとわかる墳丘はないようだ。おそらくは墓所の上に神社が建てられているのではないだろうか。そういう気持ちで改めて眺めてみると、森は深く静まって、いかにも古の神の奥津城にふさわしい雰囲気である。
古事記の仁徳天皇の項に「枯野(からの)という船」の逸話が載っている。
・・・・この御世に、兔寸(とのき)河の西の方に、一高樹(たかき)あり。その樹の影、旦(あさ)日に当れば淡道(あわじ)島におよび、夕日に当れば高安山を越えき。
かれこの樹を切りて、船に作れるに、いと捷(と)く行く船なりけり。時にその船に号(な)づけて枯野(からの)といふ。
かれこの船を以ちて、旦(あさ)夕(よひ)に淡道島の寒泉(しみず)を酌みて、大御水(もひ)献(たてまつ)る。この船の破壊(やぶ)れたるをもちて、塩に焼き、その焼け遺りの木を取りて、琴に作るに、その音七里(ななさと)に響(とよ)む。
(とのき河の西に高い樹があって、その樹の影が朝日に当たると、淡路島まで届き、夕日に当たると河内の高安山を越えたという。その樹で船を作ると驚くほど速く、枯野と名づけて、朝夕淡路島の清水を汲んできては天皇に差し上げていた。船が壊れたので船材で塩を焼くと燃え残り、それで琴を作ると、その音は七郷に響いたという)
淡路は昔から食料や水の豊かな島であったらしい。枯野と名づけられた船で運んで天皇に差し上げた水は、聖水であったと思われる。深い井戸から汲み上げた冷たい水、たとえばこの社殿の後ろにあるという神聖な井戸の水だったかもしれないと思う・・・・。
由良成ケ島
伊弉諾神宮を後にして、再びバスを乗り継いでいった。淡路島で一番大きな町である洲本を過ぎると、乗客は減っていった。バスは海岸線沿いに走り続けるが、乗ってくる人はほとんどおらず、まるで貸し切りバスのようである。
由良町で降りた。集落の中を港を探して歩く。人に道を訊くと、
「ほれ、あの、こんまい(小さな)橋を渡ったとこ」
のどかな言葉が返ってくる。
由良港はすぐにわかった。目の前にある細長い成ケ島を眺める。ここは淡路橋立といわれているところで、天の橋立のように砂洲が細長く伸びているという。島は無人島で渡し船で行けるようになっている。どんな島なのか歩いてみることにして、渡船に乗ると、ほんの二、三分で島に着いた。
島には小高い丘があり、公園風の設備もあってよく整備されているが、まったく人の気配はない。春の潮干狩りのときなどは子供たちで賑わうのかもしれないが、今は広場に明るい陽光が降り注いでいるのみで、どこもしんと静まり返り、あずまやも空っぽで妙に寂しい。
島には砲台跡があり、見晴台からは海に伸びた砂洲が眺められた。ゆるい弧を描いていて、長さは二キロほどであるという。陸とつながってはおらず、入り江では潮干狩りができるそうだ。
海岸に降りてみた。潟の部分は案外少なく、植生保護のため、立ち入りが禁じられていた。ハマボウという黄色いハイビスカスに似た植物があるのだが、季節には早く、開花は見られなかった。かわりにハマヒルガオであろうか、薄青い花が少し地面に咲いていた。通路はコンクリートで固めた堤防の上で、そこを歩くようになっている。たとえば白い砂浜を、貝を拾いながら素足で歩けるような、そんなのどかな情景を想像してきたのだが。
紀淡海峡を行き来する大型船を眺めながら、堤防の固い道を歩いていった。日差しをさえぎるものが何もない道である。対岸に友ケ島がもやに霞んで見え隠れしている。波消しブロックが並ぶ光景は無機質で、午後の陽光は強く照りつけてくる。
打ち寄せる波の音を聞きつつひたすら単調な一本道を歩いていると、今日は朝が早かったせいか、眠くなってきた。次第に足取りが重くなり、そうなるともう砂州の端まで歩いていく気がなくなってくる。
眠気には勝てず、打ち上げられた海草が散らばる磯の匂いのする岩にもたれて休み、しばらくうつらうつらした。時が止まったかのように感じられる。
ひと眠りして眼が覚めると、耳に波音だけが反響し、まだ夢の中の続きかと思えてくる。鈍く青い海原が目の前に広がり、沖合を滑るようにさっきと同じような船が往き来している。海峡をすれ違ってまた左右に離れていく大型タンカーをぼんやり見ていた。
島の桟橋に戻った。二、三人が時計を見ながら船を待っている。約束の時間には少し早いかと思ったが、由良港のほうに向かって合図の手を振ってみると、渡し船のおじさんが目ざとく見つけて船を出し、迎えに来てくれた。
「今日は、もや張っとるけん、よう見えんかったやろ」
「はい」
岩で昼寝していたとは言いにくい。
「この後は、沼島に行くん?あしこは今やったらハモの季節やけど、まだ脂はのっちょらんけん、まあそこそこはとれよるけんど」
沼島は国生み神話の地としか思いつかなかったが、実は初夏のハモ漁、ハモ料理で知られる島なのだそうだ。
その後は再びバスに乗り、さらに南下して土生(はぶ)港に向かい、沼島に渡る最終フェリーの便を待ちながら海を見ていた。何気なく壁に張ってある地図を見ると、島は勾玉の形をしている。沼島は海に浮かぶ勾玉の島だったのだ。
沼島
沼島(ぬしま)は周囲十キロの小島である。高速フェリーの船上から眺めていると、人家は入り江になった部分に集中していて、宿屋、集落、学校、神社などがかたまっている。見たところ山地を縫うように道があるようだが、海岸線は険しい崖や岩が連なっている。
夕暮れ近い港に降りて、予約していた民宿に入った。夕食は新鮮なアジのお刺身に、湯引きハモ、あぶりハモ、ハモの天ぷら、と少しずつハモ料理のお皿があって、どれもおいしく、なるほどと納得した。
翌朝、宿を出て島を一周することにした。まず山中にあるおのころ神社へと向かう。ここは神体山である。人のいない山道を分け入っていくと、長い石段があり、それを上りきったところに社殿があった。そう古い時代のものではないようだ。傍らには矛を手にした伊弉諾尊、伊弉冉尊の比較的新しい像も建っていた。
「塩こをろこをろに画き鳴(な)して、引き上げたまひし時に、その矛の末(さき)よりしたたり落つる塩のつもりて成れる島は、これおのごろ島なり」 (古事記)
手にした矛で海をかき回しているという情景をモチーフにしたのであろう。夫婦神は海辺の山の社で寄り添って海のほうを向いて佇んでいる。
神社の裏手に回ると、遊歩道に出た。沼島八十八箇所霊場巡りの祠が道端に点在しており、たどっていくと、札所のお参りも兼ねられるようになっている。明治のころ、戦争や伝染病で多くの死者が出たので、慰霊のために八十八体の石仏が建てられたとのことである。苔むした祠や、新調の祠が混ざり合っている。柔和な表情の路傍の石仏に順に軽く手を合わせ、挨拶して通り過ぎていく。
樹木の緑に包まれたすがすがしい朝の道である。どこかで鶯がさえずっている。耳を傾けていると、鶯に重なって近くの頭上で蝉が鳴き始めた。夏の盛りの蝉とは違う、もう少し静かで低い、でも確かに蝉の声だった。
(今はまだ五月の中旬なのに、この島はよほど季節が早いのだなあ)
と思いつつ、梢を見上げた。どこにも蝉の姿を捉えることはできないが、歩く道筋に沿って、蝉の声が次々に降ってくる。聞いていると自然とその音にとらわれていく。音が耳から離れない。次第に蝉の数が増えていくらしく、歩くうちにもう辺りがうるさいほどに空気が震え、頭の中でもじーじーわんわんと鳴っている。
ふと気がつくと、道が消えていた。草の中で一瞬呆然と立ち尽くす。何かぞっとするものがあった。あわてて宿でもらったパンフレットの地図を出して、今いる位置を確認する。
迷うはずはない、と言い聞かせ、遊歩道の線を指でなぞっていく。方向は合っているので、引き返さずにそのままいくことにした。ほどなく海が見えてきて視界が大きく開け、おのころ山を抜けたことを知った。潮の香の混じる海風が吹きつけてくる。あれほどうるさかった頭上の蝉の気配はもうどこにもなかった。
山道を進んでいくと、右手に岩礁が見えてきた。波が白く立ち、岩は角度によってさまざまな形に見える。道は山の中へ入ってはまた海の見える地点へ出て、それを繰り返すうちに、この島の象徴ともいうべき上立神岩(かみたてがみいわ)が見えてきた。
海辺への石段を降りていくと、海中に矛を立てたように直立する大岩があった。二神が廻って声を掛け合ったという天の御柱と伝えられる上立神岩であった。再び古事記の世界を見てみよう。
・・・・その島に天降(あも)りまして、天(あめ)の御柱(みはしら)を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。・・・・「然らば吾(あ)と汝(な)とこの天の御柱を行き廻りて、みとのまぐはひせむ」
伊耶那美の命まづ「あなにやし、えおとこを」とのりたまひ、後に伊耶那岐の命「あなにやし、えをとめを」とのりたまひき。・・・・子(みこ)水蛭子(ひるこ)を生みたまひき。この子は葦船に入れて流し去(や)りつ。
天つ神の命(みこと)以ちて、太占(ふとまに)に卜(うら)へてのりたまひしく、「女(おみな)の先立ち言ひしに因りてふさわず。また還り降(あも)りて改め言へ」・・・・御合(みあ)ひまして、子(みこ)淡道(あわじ)の穂の狭別(さわけ)の島を生みたまひき。
伊予の二名(ふたな)の島を生みたまひき。・・・・次に筑紫の島を生みたまひき。・・・・次に大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)を生みたまひき。・・・・吉備の児島を生みたまひき。・・・・小豆島を生みたまひき。・・・・大島を生みたまひき。・・・・国を生みをえて更に神を生みたまひき。
海の神名は大綿津見(おおわたつみ)の神を生みたまひ、・・・・風の神名は志那津比子(しなつひこ)の神を生みたまひ、・・・・山の神名は大山津見(おおやまつみ)の神を生みたまひ、・・・・およそ伊耶那岐伊耶那美の二神、共に生みたまふ島一壱拾余島、神参拾伍神・・・・。 (古事記)より
上神立岩は打ち寄せる波に洗われている。白波が砕け散っていく。海中の岩の高さは約三十メートルあるそうだ。矛の形をして垂直に立っている。神話の世界の舞台にふさわしく、そこには海と岩と風と太陽が織りなす、素朴で力強い自然の景観が広がっていた。人工的な設備が何もなく、観光地にありがちな都会風の雰囲気がないのがいい。
古代もおそらくこんな情景だったろうと思わせるような、ありのままの荒々しい自然が、この場に立ってみて今も感じられるのが嬉しい。神立岩に近づくには船しかなく、人は海岸から眺めるだけである。
古の地形は、今みているのとはまた異なっていたかもしれないと思う。岩は陸地にあったと想像するのが神話の内容に似つかわしいし、岩の形も今とはまた少し趣が違っていたかもしれない。
二神はここから左右に分かれて柱を廻ったという。女神が右から、男神が左から回って再び出会ったとされる。二神の臥所となったのは、平バエと呼ばれている、上立神岩から南下したところにある平たい大岩である。
奇岩はこのほかにもいろいろあって、下立神岩という大岩(安政の地震で上部が折れたそうである)や、ショウジョウバエ、大バエなどが海岸線に沿って見られる。
二神はこの島に降って大きな柱と御殿を立て、そこで結ばれた。その際、女神の方から先に声をかけたため、水蛭子(ひるこ)というよくない子が生まれたので、それは海に流し去り、天つ神の言葉に従って今度は男神のほうから声をかけて、淡路島や四国、本州など日本の国土となる島や多くの神を産んでいった。
二神は多くの島を生んだが、おのころ島だけは、生んだのではなく、矛でかき回した海水の滴りが固まってできた特別な島ということになっている。
塩は古来穢れを清める作用を持つとされている。その清らかな塩でもってできた聖別された場、いわゆる聖空間ということだろう。
おのころ島がどこであるかということについては、沼島のほかに淡路島、絵島など何箇所か候補地があるが、その中でも沼島は最有力地であるという。
潮風が強く吹き付けてきて、佇んでいると波の飛沫が顔にかかる。土生港からのフェリーが着いたのか、港からまっすぐここに上ってきたらしい観光客の姿がちらほらみえる。私が歩いたのとは別の近道が港から通じているが、それにしてもここまで来るだけでも大変な労力である。疲れて座り込む人もいる。
大きな岩がごろごろと海辺に転がっている険しい岩場に飛び降りて、滑りやすい岩を伝い始める男の人もいるが、私には無理なので、今いる位置からもう一度聖婚の岩を眺めた。
いったん港に降りて、食料品店でお弁当を買い、木陰で昼食をとって休んだ。涼しい風が吹き抜けていく。
午後は再び反対側の山に入って、霊場巡りの続きをして、山の大神を祭る神社なども訪れた。どこまでも樹木の緑が心地よい道であった。赤い可愛い鳥居が草の中に林立している。豊漁や航海の安全を祈る文字が書き込まれてある奉納鳥居を見ていると、ここが漁業の島であり、海の神や産土神への信仰が島の人たちの心に、今も強く生きていることがうかがわれた。
山の大神の社でしばらく休憩した後、脇道を見つけて学校の前を通り元の集落へと降りていった。これでちょうど八の字の形に島を歩いたことになる。
夕方のフェリーに乗りこみ、土生港へと戻る船窓から、遠ざかっていく沼島を見つめていた。
書紀の一書に、二神は、
「おのごろ島を以て胞(え)として淡路島を生む」という一節がある。また別の一書によれば、二神は「淡路州を以て胞として、大日本豊秋津州を生む」とも。
沼島や淡路島は胞、つまり胎盤であると古の人は考えたのであろう。生み出すためには胎盤が要るという発想である。沼島はきちんとした勾玉の形をしている。そして勾玉は、まさに子宮の中の胎児を思わせる。
夕暮れ近い淡路の海は穏やかに澄み、船は島を後にし高速で滑るように走っていく。振り返ると、沼島は青い水に浮かぶ碧玉とも見え、水平線の彼方に静まっていた。