わが家の書庫でおもしろい記事を発見した。『旅の手帖』の2012年7月号である。その表紙には大久野島をバックに忠海幸崎間を走る電車の写真が掲載されている。そのテーマは「青春18キップ~30th Anniversary」で、その中に忠海~大久野島が紹介されている。「安芸の小京都」とも呼ばれる竹原が海運で盛んな港町として注目されるのは、鎌倉時代から江戸時代にかけてのことだが、市内東端に位置する忠海には平家ゆかりの伝承がある。保延元年(1135)、瀬戸内海で暴れる海賊を清盛の父・忠盛が捕らえたのが、この沖合の海域だった。その功績が認められた忠盛は付近一帯を領有し、目の前の浦を「忠海」、対岸の大三島の集落を「盛村」と名付けたといわれ、それぞれ現在も地位が残っている。ちなみに清盛は当時18歳の青年で、父の海賊討伐をきっかけに、従四位下へと出世した。
残されるのは、地名だけでなく、忠海は自然や文化の豊かさを感じさせるスポットが周囲を取り巻く。清盛ゆかりのエピソードが伝えられるのが「耳なし地蔵」で、高倉天皇に嫁いだ娘・徳子の安産祈願に彫らせたもの。耳がないのは、完成前に男の子(後の安徳天皇)が無事に生まれ、喜びのあまりそのままの姿で祀ったからだという。
さらに、国内でも有数の規模のモッコク群生が見られる忠海八幡神社、古き良き青春映画の舞台となったエデンの海、そして瀬戸内海沿岸地域ならではの伝統というユニークな石風呂など、印象的な名所が目白押し。
JR駅裏の小さな港からフェリーが発着し、ウサギの楽園として人気を集める大久野島を経て、瀬戸内海でもとくに島密度の高いしまなみ海道の大三島へと向かう。日本鎮守府こと大山祇神社がありる国宝の島として知られるとともに、古くから宮島と同じく神の島と崇められ、長らく漁業をすることさえ禁じられていた。
フェリーの乗船場は忠盛ゆかりの盛港だが、かつての表玄関宮浦港には大山祇神社の立派な一の鳥居が構え、海からの参拝が多かったことを窺わせる。一昨年、688年ぶりに再建された総門をくぐり境内奥へ進むと、推定樹齢2600年や3000年といわれる古木群が囲み、源平時代の武具を収蔵する宝物館など見所も多い。(『旅の手帖』2012年7月号P88~89)
この記事を読んで、はたと思い出したのは、同じくわが家の書斎にある2014年5月6日株式会社アントレックス発行の著者・写真山崎友也『人生で一度は乗りたい鉄道でゆく日本の絶景旅』という本である。その6月№15で「穏やかな瀬戸内海が顔をのぞかせる場所」として呉線安芸幸崎~忠海が紹介されている。
写真は2009年6月28日18時28分頃に撮影された夕焼けに染まる忠海安芸幸崎間の風景である。
そして次のような一文が添えられている。
中国地方と四国地方に挟まれ、大小700あまりの島々で形成されている瀬戸内海。古くから人と自然とが共生し、段々畑や港町、昔からの家並みなど、人文景観が特徴である。四方を山に囲まれていることや温暖な気候もあってか、瀬戸内沿岸では夏になると風が止まる凪の日も多く発生する。とある梅雨の晴れ間の夕方、この日も凪で無風状態。風がないため水面が波立たず、穏やかな瀬戸内海を見ることができた。
山陽地方では多くの路線が瀬戸内付近を走っているのだが、列車から海を眺められる場所はほとんどないので、景色を楽しめるこの区間は非常に貴重である。(P38~39)