「では、賀儀城の規模はといえば大して大がかりなものではなかったろうと思われる。前述の『国郡志下調書出帳』の別項に『古城跡』という項があり、これが賀儀城跡である。
宮床浦(註。船溜り)ノ東ノ端シ、御留山ナリ。四方ナガラ山嶮ニシテ高サ凡ソ拾六間(註。一間ハ六尺。約一・八米)、山上平地。上ノ段広サ凡ソ百六十坪 (註。一坪ハ三・三平方米)。昔ハ三方海、西ノ方地続キ。其後北ノ方塩浜ニナリ、東ノ方大川ノ砂出デテ白砂ト成ル。南ハ海峯嶽々トシテ登ルベキ処ナシ。
『お留山』の資料の示すものは、所謂水軍城なのである。さて、水軍城とはどんなものか。その条件としては先ず次のことが考えられる。
1 海岸線に凹凸のあること。
2 水辺に領土を持ち、水上に勢力を奮ったものであること。
3 一軍の首脳者とその従属者の居住所であり、休養所であり、兵器や 糧食の貯蔵所であること。
4 次いで、所属の艦船を保護監理し、陸上を監視し、また陸上との連 絡のよい場所を確保していること。
5 直接水面に接するか若しくはそれに近い場所にあること。
6 船の停泊所に適する港湾に臨んでいること。
7 天然の嶮阻な地形に拠り、敵の侵入を防ぎうること。
これらの自然条件のすべてを、賀儀城を中心とする忠海町は充分に満足させていたであろうことは首肯できる。」(石岡文四『浦宗勝関係資料控』P213~214)
太田雅慶氏の『小早川水軍の将浦宗勝』の中にも賀儀城の記述があるので、重複を避けてここに転載する。
「現在、城跡は陸化されているが麓には今も海蝕崖(波浪による浸蝕) が残り海岸であったことを物語る。郭は南端の最高所二十五メートルが本丸で、北側の低い郭が二の丸にあたる。二の丸の西側に深い井戸があった。『忠海案内』に『浦氏居城の本丸間取図』が載っている。
勝運寺の裏山に烏ケ城の地名が残るが鍵(賀儀)城の詰めの城であろう。浦宗勝の時代には、天正年中(1573~91)開基の願海山誓念寺(浄土宗)、真言 宗から天正年中真宗となった南徳山明泉寺、明応四年(1495)開基の長栄山西養寺(真宗)、文亀二年(1502)開山の青襲山淨居寺(曹洞宗)、勝運寺 末寺の福寿山海蔵寺などの寺が山裾に配置されていた。山沿いに残る防禦用の鍵型路も浦氏時代のものであろう。地名としては末友、今市などが残る。今市より 以前に古市が、小泉寄りにあったのではないだろうか。」(太田雅慶『小早川水軍の将浦宗勝』P76~77)