竹原書院図書館で山口徹編『街道の日本史42瀬戸内諸島と海の道』という本を見つけ借り出した。そこに幕末期の忠海港のの交易についての記述があったので紹介しよう。
小型廻船と「生活圏」の形成 幕末期には、民衆の生活と商品生産・流通が日常的な次元で結びつき、よりきめ細やかな流通網が形成されつつあった。御手洗港からは目と鼻のさきにあたる忠海港の問屋、浜胡屋と江戸屋には幕末・維新期の客船帳が残されている。その取引港・得意船数・交易品目などを分析された豊田寛三氏は、忠海港と芸予叢島島嶼部および東予中予地域との間に日用品の交易を行う「生活圏」が形成されていること、豊後との関係においても佐賀関半島以北についてはそれに近い関係を想定されている。(幕末・維新期の九州廻船と安芸忠海港、柚木学編『九州水上交通史』文献出版)。ちなみに浜胡屋には5038艘、江戸屋には6693艘の得意船記載があるが、双方あわせて1000艘以上になるのが伊予・讃岐・安芸の船で、500艘以上は周防・長門・豊後の船である。
このような状態は何も忠海港にかぎったことではなく、後背地を持つあちこちの港が網の目状結ばれ、豊後を含む瀬戸内西部に一つの地域交易圏を想定することも可能であろう。そしてそれらの港を結ぶ船はむしろ小型の廻船であった。大崎下島沖友の藤本屋長栄丸のごとく千石船で石炭の買積みや領主米の運賃積みをおこなうような例ももちろんつづいているが、(脇坂昭夫「近世後期瀬戸内海における廻船業」『瀬戸内海地域史研究』第5輯)、倉橋島釣士田のようにこの時期すべて三反帆(灘帆六、七反で船員三名程度)の船に特化し、のちの機帆船の村の萌芽が見られる場合もあった。たとえていえば、帆船時代における「宅配便」段階に入ったということであろうか。(山口徹編『街道の日本史42瀬戸内諸島と海の道』P115~116)
ちなみに松岡久人編著『瀬戸内海の歴史と文化』(瀬戸内海環境保全協会)には江戸屋の交易について次のような記述がある。
安芸の忠海の廻船問屋の江戸屋が18世紀末から約1世紀の間に取引した廻船は、讃岐の915艘を筆頭に、周防の668艘、伊予の629艘、長門の480艘の順で、ついで出雲338艘、越後326艘、阿波303艘、豊後283艘、播磨276艘、石見264艘、安芸211艘となっている。出雲、越後、石見など日本海側の廻船もきているが、瀬戸内の廻船が多数入港し、米、干鰯をはじめ、瀬戸内や九州の多数の産物が忠海港で取引されている。伊予の廻船の忠海港での取引品目をみると、安芸の特産品たる塩・煙草・綿実・菰などを積み出し、安芸方面の特産品に必要な干鰯・平子など肥料類を荷揚げしている。こうして幕末には、瀬戸内地域の廻船業は、山陰・北国・蝦夷地との取引も行っていたが、その中心は瀬戸内一帯、さらに九州を舞台として活躍した廻船を“瀬戸内海廻船”とでもいうことができよう。そして幕末には、全国的商品流通機構の中核としての大坂に商品が集荷しなくなり、大坂の市場としての地位が低下し、ひいては幕府の支配体制が動揺していったといわれているが、瀬戸内の廻船の発展は、このような傾向を推し進めた一つの動きであったと言えよう。
しかしながらこの瀬戸内海廻船の最盛期も明治10年代間で出、陸上交通の発達、西洋型帆船・蒸気船の普及などによって、全国的に近世の帆船廻船が衰退していくなかで、瀬戸内の廻船もその姿を見ることができなくなっていった。(『瀬戸内海の歴史と文化』P156~157)