先日、鳴海風(なるみふう)という作家から『星空に魅せられた男 間重富(はざましげとみ)』という本を贈られた。
その鳴海風氏から、『忠海再発見』を見て「平賀晋民の名前の読み方は『しんみん』ではなく『すすたみ』と読むのではないか」というメールをいただいた。そ こで竹原の菅脩二郎先生におたずねしたら「『すすたみ』で間違いないだろう」ということで、そのように返事した。このたび、この本とともに次のような手紙 をいただいたので、紹介しよう。
「昨年、忠海出身の漢学者平賀晋民の名前の読み方をメールでお尋ねした鳴海風です。そのときは、郷土史研究家の菅さんをご紹介いただくとともに、やはり『すすたみ』と読むのではないかとご教示いただきました。ありがとうございました。
結果として、菅さんにお電話する余裕はありませんでしたが、『すすたみ』という読み仮名をつけた児童文学『星空に魅せられた男 間重富』が、先月くもん出版から出版されました。ご参考までにお二人に贈呈させていただきます。ご笑納ください。
『すすたみ』とした根拠(出典)は、澤井常四郎著『経学者平賀晋民先生』(大雄閣書房 昭和5年刊)の中の、系図の説明(晋民本人による)の中で『すすた み』とルビがふられているからです。また、本文の中の出自の説明では、名は晋民、初め晋人(すすんど)、叔明、字は子亮、房父、号は中南、果亭、南嶺、芭 園(芭塾)、通称は孫次郎、惣右衛門、さらに平賀図書(青蓮院文学たりし時)、土生若狭介(大舎人出仕の時)とあります。出自の説明文の最後に、名前を晋 民とした理由を平賀晋民自身が書いた文章が載っていました。
抜粋して書きます。筮竹で占って出た卦が由来みたいです。
……孔子曰求也退故進之、嘗筮得晋卦。故改名晋民。
インターネットで検索したら、以下の文章も発見しました。易経の中の晋卦の説明関連です。
第五 晋上九晋其角の条(晋卦上九の程伝にある)
晋の卦は惣体がすすむと云の道理なり。進むは向へ向へとずっずっとゆくこと。また、芭蕉門人の其角は、名前を易経の晋卦(其の角に晋む)から取っています。
平賀自身は晋民と書いて『すすたみ』と読みたかったのではないでしょうか。最初の名前も晋人ですから『すすんど』。どんどん前へ進む人間でありたいと思っ たのでしょう。人命を訓読みなく音読みにすることはよくあることですから、『しんみん』も後世の人々からそう呼ばれていたのかもしれません。
今回の作品の中では、主人公である間重富の人格形成に重要な影響を与えた人物として平賀晋民を書きました。立身出世を望まず学問と研究に生きた平賀晋民の 姿は、そのまま間重富の生き方に反映されたとしたのです。この作品は、小学校高学年から中学生が対象で、できれば親御さんや学校の先生も一緒に読んでもら いたいと考えて作りました。テーマが多くの人に理解されること(それはそのまま平賀晋民の生き方が理解されることですが)を期待しています。
昨年10月に忠海町と竹原市を訪問しました。忠海では、平賀晋民先生旧宅跡という標柱を発見しましたが、その近くの建物がそれなのか、近所の人に尋ねてみ ましたが『知らない』とのことでした。竹原では歴史資料館を訪ねました。年表に平賀晋民の名前を発見しましたが、振り仮名が『しんみん』となっていまし た。
脇本さんがホームページなどで書かれているように、ぜひ地元の方たちにも平賀晋民の存在をもっと知ってもらいたいと思います。
平成23年4月17日 鳴海 風 」
ちなみに、『星空に魅せられた男 間重富』あらすじから間重富がどんな人かを紹介しよう。
間重富(はざましげとみ 1756~1816)は、江戸時代大坂で、西洋天文学を基礎においた日本で初の天文塾「先事館」を開い た麻田剛立の優れた弟子。もう一人の高弟高橋至時と共に、幕名により出府し、幕府天文方として「寛政の改暦」を果たす。間重富の家業は、大坂で代々続く質 屋で蔵の数が11あったことから、屋号が「十一屋」といわれるほどの豪商だった。少年時代に天文観測器具を独りで作ってしまうほど利発で手先が器用だった 重富は、儒学を平賀晋民に、和算を坂正永に学び、天文観測を究めるために「先事館」に入門する。広いネットワークを持つ重富は、師の剛立のために天文学の 貴重書『暦象考成 後編』を入手し、これによって剛立の天文学は飛躍的に進歩する。
時を同じくして入門した高橋至時は、学問・理論で一日の長があるものの、重富は天文観測の機械の発明、改良に天才的な能力を発揮し麻田学派の両翼となる。 その最たるものが、寛政の改暦に重要な働きをする「垂揺球儀」の発明である。天体観測のための世界一正確な時を測る時計だった。至時とともに幕府天文方に 召された重富は、改暦の煩瑣な御用をなす至時にかわり、伊能忠敬の指導をし、伊能忠敬が全国測量に用いた計測器具は、ほとんど重富が考案し職人に作らせた ものであるが、一般には知られていない。
重富と伊能忠敬との関係については、渡邊一郎著『伊能測量隊まかり通る』(NTT出版)に次のように紹介されている。
「間重富という人物がいる。高橋至時と同じく暦学者・麻田剛立門下で、大阪の富商であった。寛政の改暦の際には天文方と並んで事実上の責任者を務めてい る。終生、五人扶持を給されており、幕臣の身分も有していた。文化元年1月に至時が没した後は、3月に幕府から至時の嗣子・景保の補佐をするよう命じら れ、10月には出府して暦局に入った。(中略)西国測量の実施に至るまでの段取りにおいて、改暦の実績があり、財力もある間重富の推挙は大きかったと見て よいだろう。重富は、西国地区は自分で測量する気であった。たまたま実施予定が延びているうちに至時の死に出会い、方針を一変して、自らは景保を支えて後 方支援にまわり、測量の実施を忠敬に委ねたという。重富にすれば、自分ができないのなら忠敬しかいないと考えたのであろう。(中略)幕府直轄事業としての 全国測量は、当時の内外の情勢を背景に、間重富と伊能忠敬の二人の熱意を桑原隆朝(忠敬の義父で仙台藩医。幕府の要人と強力な人脈)が後援して、いずれ必 要となるであろう日本全図の作成を目的に実施に持ち込んだものとしか考えようがない。東日本図の成功という実績があるので、隊員を増強し3年かければ同じ ような、日本全図ができるという計画に幕閣がのったというのが真相ではないか。後世、忠敬のみが著名となったが、彼を表舞台にあがらせたのは桑原隆朝と間 重富の二人だったのではないだろうか。(P24~25)