『文政二年国郡志御編集下しらへ書出帳 豊田郡忠海町村』に「土地古今変改ノ事」という一節があり、次のように書かれている。
「当村往古ハ村高千七百三十九石余ニテ忠海能地渡瀬の三ケ村ニ分ルといふ(年暦不知)………昔ハ二窓浦ノ奥渡瀬迄入海ニテ塩浜等も有シト云(近年此辺ノ田 畠底ニ浜床ノ土ヲ掘出事有テ是ヲ察ス)、往古八幡宮ノ神輿、此所ノ瀬ヲ渡シ当亀ケ頭山へ渡御イタストナリ、又平清盛此所ニ御泊船ノ事有リシト申伝フ、其後 此辺不残田畠と成二窓漁師屋敷出来猶又沖手へ船入新開出来(享和元〈1801〉年ニ御見取所成)」(『竹原市史 第三巻史料編(一)』P150)
『日本歴史地名大系』第35巻「広島県の地名」には慶安4〈1651〉年に忠海村から渡瀬、能地に分村し、二窓に魚師屋敷2反6畝を置くとある。
これらを見ると古代・中世の忠海は渡瀬・能地と一体の地域で浦氏の居城である久津城や清泰寺を中心に渡瀬、能地、二窓へと開けた港であったと思われる。
倉本澄氏は「(古代中世の忠海は)清泰寺古墳を中心にして2つの口をもつ良港であった。2つの口とは埠頭が2つあり、すなわち二窗だろうと思う。清泰寺古 墳から見て、左に突き出た岬を『幸崎(佐江崎)』と呼び、その対岸を『あげ』と呼ぶ。あげとは古代語で口のことを言った。佐江崎とあげの間の海峡について 残されている地名を尋ねると海の方からまず『久津』すなわち港に来る印、『あげ』すなわち港の入り口、『石州』『州の上』『相川』『行乗』ともに流れがす らすらと行くこと、『丸山』は一名船たで場のこと、『清泰寺跡』『清泰寺古墳』『渡瀬』は舟に乗って渡っていた所、『つかん谷』ここでは何か祭祀をやって いたのであろうと思う、『土居』『川原ざこ』『宮の谷』『稲負い』『竜王山』もう一つの口『江の内』とある」 この清泰寺に、天正20〈1592〉年4月豊臣秀吉の祐筆として外交文書を作り詩才も高く評価されていた相国寺の僧・西笑承兌が泊った時に詠んだ漢詩が 『鹿苑日録』という書物の中に残っている
清泰閑房詩思加 開窓船上片帆斜
四時不変海山景 耳聴風松眼浪花
(忠海町郷土史研究会編『忠海歴史年表』P9~10)
倉本澄氏は「この詩では清泰寺から『海』『浪』を眼にして詠んだということは、当時清泰寺の近辺が海だったということが解る。そこから西に回っていくと清 泰寺古墳があり、古墳の前面は明治期までは田圃であった。その田圃の底から貝の化石がよく出たと渡瀬の古老から聞いた。以前はそれらの化石が渡瀬の小学校 に沢山置いてあった。中世の後期に山崩れがあり、磨崖仏のある上に二個の池を残して切断された。この事は現在の地形を見てもわかる。池から下は低い田圃に なっており、そこから『江の内』という内港があった」と述べられている。 倉本澄氏のこのような問題提起は中世の忠海を考える上で極めて興味深いのでここに転載した。