石山合戦とは1570年から1580年の11年間にわたって織田信長と一向宗(浄土真宗)本願寺との間に戦われた合戦で、本願寺のあった石山(現在の大阪 城本丸の位置)がきわめて要害の地であったため、織田信長は中国地方支配への拠点としてここに築城の意志をかため、寺の移設をせまったが、顕如がこれを拒 絶したため全国の一向宗門徒の総力をあげた戦いとなった。(平凡社『世界大百科事典』)
浦宗勝の属する毛利水軍は、石山本願寺を支援し、1576年と1578年に織田水軍と戦っている。
1576年の戦いでは、浦宗勝を先頭とする毛利水軍が三百艘の織田水軍を「投げ焙烙」などによって焼き払い全滅させた。 第1回の木津川河口の海戦で惨敗した信長は、前回焙烙火矢で苦戦したため、桁外れの火器を装備し、鉄板張りの防御を施した最新・最強の軍船(大安宅船)を 作り、木津川河口の防衛にあたった。
1578年、浦宗勝と児玉就英を主将とする毛利水軍六百艘は、織田水軍の大安宅船に行く手を阻まれ大苦戦となり、やっと3日後に血路を開いて石山本願寺に兵糧を入れることができた。
この石山合戦の兵糧船に掲げた旗が有名な「進者往生極楽 退者無間地獄」と書かれた薄黄色の手織り木綿の旗で、現在も竹原市東野町の長善寺に保存されている。(太田雅慶『小早川水軍の将 浦宗勝』)
この石山合戦と浦宗勝について、文学のなかにも登場するので2冊ほど紹介してみよう。
1冊目は、村上水軍の長・村上武吉を主人公にした城山三郎の『秀吉と武吉』 「小早川隆景の居城三原城は、このころ新高山城からの建物の移築もほとんど終わり、まるで海に浮かぶような美しい姿を見せ、「浮城」と呼ばれるようになっ ていた。 城下はもともと人や船の出入りがはげしかったが、織田と戦う毛利方の本拠地としてにぎわっていた。 この三原で、村上水軍は児玉就英・乃美宗勝・井上春忠らの率いる毛利や小早川の水軍と合流した。毛利水軍は、一文字三星紋の毛利の旗印の他に、安芸門徒が 多いため、“進者往生極楽 退者無間地獄”という旗を掲げていた。」
2冊目は小早川隆景の恩顧をうけた武将たちが、鞆の津でひらいた茶会の記録という形式をとった井伏鱒二の『鞆の津茶会記』 「豊臣秀吉は織田信長の武将であった頃、一向一揆と盛んに戦った。一向宗徒たちが鷺の森に隠退する前、これに刃向かうわれわれ小早川水軍は、備後国高蓋、 馬屋原但馬守の指揮により、鞆の津から淀川口に向けて出発した。船団七百余艘がまつしぐらに進み、米二百俵、金子二百両、鉄砲百挺を乗せ、“進者往生極 楽”“退者無間地獄”と書いた大旗を先頭に、但馬守の陣頭指揮で秀吉の軍勢に突進んだ。あの頃までの秀吉は信長の助言があって味のある働きをしてをった。 我々毛利軍の兵船では、曰く、田島の天神山城主村上八郎衛門景広の水軍二百余艘、曰く忠海の宮床城主浦兵部丞吉勝の百余艘、曰く、向島浦水軍の宮地左衛門 尉忠義の百艘、曰く、大崎上島水軍の村上左門唯清の百艘、大三島、大崎下島の船その他であった。」
井伏鱒二は、この小説の序で、ここに登場する人物は架空の人物としているが、ここに登場する浦吉勝が浦宗勝をモデルにしていることは明らかであり、この『茶会記』にもたびたび登場し、冒頭の茶会では御手前を行っている。