竹原書院図書館において安芸津の医師、阪田泰正氏の著書『医師として郷土史研究家として』を見つけた。その中に阪田泰正氏の郷土史に関する論文の一覧表が掲載されている。それらが掲載されている主なものは『安芸津風土記』『竹原春秋』『医家の休日』であるが、その中で忠海について記述されているものを竹原書院図書館の蔵書の中から捜してみると、次の論文を見つけることができた。
忠海を作った人々(『竹原春秋』14号)
戦国に生きた人々・浦宗勝(『安芸津風土記』33号)
早田原村塩田と田窪藤平(『安芸津風土記』39号)
豊田郡入野村清田塾の人々(『安芸津風土記』44号)
歴史の中の忠海・朝鮮通信使忠海に宿泊(『医家の休日』№17)
閨秀画家平田玉蘊と頼山陽(『安芸津風土記』49号)
これらの論文の中から、興味深いものを抜粋して紹介してみよう。
「忠海を作った人々」に、羽白家(江戸屋)の人々が紹介されている。
羽白九左衛門高親(屋号、江戸屋)
〈生年月日〉不祥
〈没年月日〉元禄3年6月11日、法名、白反一透眼宗徹居士
忠海村庄屋。正徳年中(1711~1715)伊予屋源六と共に現在の忠海駅付近に大規模な4カ所の塩田を築調した。(竹原春秋)
羽白九蔵高明(屋号、江戸屋)
〈生年月日〉不祥
〈没年月日〉文化4年5月20日、法名、柏林紹栄居士
幼年の時継母に育てられた恩義を思って母の事統て人にさせず九蔵夫婦で心から仕えた。忠海村の町年寄役を勤め、年50余になったときは母の足が弱くなったので自ら母を背負うて母の希望する方向へ行った。人を招くにも、人に招かれるときも、必ず母に問うてから後に約束した。慈悲の心があり、其家甚だ富んではいなかったが困窮者にめぐみを与え、屡々苦難を救った。寛政11年(1799年)8月25日、「継母の事にて甚だ孝なり」という理由で藩賞を受け、銀そこばくを賜った。(豊田郡誌、芸藩通志)
江戸屋九良三郎高忠
〈生年月日〉不祥
〈没年月日〉寛保2年7月7月16日、法名、聡休宗悟居士
文政11年(1826年)忠海村庄屋(二窓浦東役所の近世文書目録)
元禄11年戌寅(1698年)臘月吉晨、地蔵院に大鐘を奉納す。
鐘銘に
「地蔵殿上掛新鐘 声吐雷風徹于空
啻匪驚回順悩睡 人天異類証円通
芸州豊田郡忠海浦鋳師大工当所住人 森田勘七清房
同郡同浦霊岩山地蔵院現住 知円代 本源自性
元禄十一戌寅臘月吉晨 江戸屋九郎三郎」
とある。
羽白徳十郎清常
〈生年月日〉不祥
〈没年月日〉文政11年3月8日、享年62才、法名、春谷紹昌居士
俗名、行載、文化2年(1805年)忠海村庄屋(二窓浦東役所近世文書目録)
羽白 新(屋号、江戸屋)
〈生年月日〉明治22年1月10日
〈没年月日〉昭和50年4月1日、享年86才。
羽白茂兵衛(母キシ)の二男。県立忠海中学卒。昭和8年忠海町助役。同10年6月 忠海町長に就任、爾来昭和33年10月まで町長として(継続的)忠海町の発展と町政の運営に独自の手腕をふるい、特に竹原町との合併を促進し、竹原市政を実現させた。(中略)在職中の主なる事績として、忠海高女全校地買収、忠海中学40周年記念事業本館改築、忠海西小学校敷地造成並びに校舎改築及び講堂建設、豊田郡農業会館の建設発起推進、豊田地方事務所誘致、呉三原間国道建設運動の提唱と期成同盟会への協力、忠海駅前道路の改良、陸軍兵器庫より忠海駅まで1000メートル道路改良、旱害対策溜池の造成、臨海工業地造成のため長浜棚林島-高崎新開海面並びに陸地の実地測量図作製、上水道拡張計画の実施、国立公園大久野島開発陳情運動の展開、忠海高校理科教室建設等がある。(後略)