「毛利輝元が三度にわたる九州出征のあと、上洛の途についたのは天正16年7月7日辰刻(午前8時)であった。豊臣秀吉は天正 15年5月に島津義久を降して九州平定をなしとげた。輝元も同年7月、吉田に凱旋したが、帰国後間もなく、肥後の佐々成政の領内で一揆が起こったので、同 年9月、再び九州に出征した。この頃、輝元は秀吉の国内統一が着々と進行し、天下の政権がことごとく関白秀吉の手中に掌握されつつある形勢を観望して、多 年の宿願であった上洛を企図した。(『戦国最強の海上軍団・毛利水軍』P118)
この毛利輝元上洛の次第を記したのが『天正記』である。『天正記』は天正16年(1588)7月から9月まで毛利輝元の上洛に随行した侍臣平佐就言が輝元主従の動静をつぶさに書き綴ったものである。この文書の中に草津と忠海が登場するので紹介しよう。
「天正16年戌子 7月7日 晴 辰の刻(午前8時)に諸将を率いて吉田を出発。午の刻(正午)に可部の渡りに到着。ここで三入 高松城主熊谷信直・元直父子が茶屋を立てて歓待し、三献の酒を献上。さらに元直から太刀一腰と午一疋を進上した。海路安芸草津へ着いたのは同日申の刻(午 後4時)であった。海蔵寺に一泊。草津城主の児玉内蔵大夫就英が来謁して、酒一献を進上。当日、輝元は家臣の平佐伊豆守就之・佐世与三左衛門尉元嘉・二宮 太郎左衛門尉就辰を使者として、供奉ならびに船中での法度の次第を家臣一同に申し聞かせた。また、安芸高屋の頭幸崎城主平賀元相も来謁して、五郎正宗作の 脇差を献上した。
7月8日 晴 午の刻(正午)に草津を出航して厳島へ渡海した。厳島神社の棚守元行(房顕の子)が輝元主従を屋敷へ招き、酒一献を進上。このとき、島中の 者が残りなく出仕して、進物を献上した。未の刻(午後2時)に両社へ参詣。湯立、神楽を調達。吉川広家が参着して御供に加わった。申の刻(午後4時)に厳 島を出航。酉の刻(午後6時)に似島に着いて、船中で泊まった。この夜、穂田元清父子が参着して、酒樽・肴などを進上した。
7月9日 晴 卯の刻(午前6時)に似島を出航し、巳の刻(午前10時)、音戸の瀬戸へ停泊して潮待ちをした。輝元が立宿において行水をしていると、備中 の有地民部少輔の使者がやって来て刀剣一腰を献上した。午の刻に瀬戸を出港。音戸の瀬戸を渡るとき、平清盛の石塔(清盛塚)を見ながら、亥の刻(午後10 時)に忠海へ到着した。
7月10日 晴 卯の刻(午前6時)に宮床大明神へ参詣して神楽を奉納。休憩所の神宮寺で朝食をとったあと、再び忠海へ帰還。辰の刻(午前8時)に忠海を出航して、正午に備後三原の糸崎へ到着。
この文章を見ると草津と忠海が重要な港であったことがわかる。
そして江戸時代になると三次藩主浅野長治は、この草津と忠海に代官所や蔵屋敷を配し、要港としたのである。