農山漁村文化協会からあるくみるきく双書『宮本常一とあるいた昭和の日本』という本が刊行されている。その第6巻中国四国③に印南敏秀という人が「瀬戸内 の石風呂を訪ねて」という文章を載せており、その中で忠海の石風呂での体験を詳しく書いているので紹介しよう。全文を載せることができないので、省略し た。
「山陽線三原駅で新幹線から呉線に乗りかえると、20分で忠海に着く。車窓からは芸予の島々が見え、その風景は美しくあきない。 忠海の石風呂は、その芸予の島々をのぞむ竹原市忠海町床浦の宮床海水浴場のかたわらにあった。石風呂は海辺に建つ石風呂温泉旅館『岩乃屋』が経営し、正月 を除き一年中営業している。……
石風呂は入口が二つあり、扉の前に『あつい方』、『ぬるい方』と書いた表札がかかっている。『ぬるい方』に入ってみたが、昨日の余熱で室内は思いのほか熱い。入口の料金表に『朝風呂』とあったのを思い出した。
二つの石風呂はもとは一室だったが、今は壁で仕切られていた。床には筵、その上に海草がひろげられていた。アマモが使われているのを目にしたのは、はじめてである。次いで『あつい方』に入ったが、あらかじめ扉はあけたままにしておいた。内部は隣と同じ大きさであった。……
10時すぎ、『岩乃屋』の主人稲村喬司さんが枝木を運びはじめる。枝木はかつては松と決まっていたが、現在松は全体の二割ほどで雑木が多い。枝木は近在の 農家に冬の山掃除のとき束にしてもらい、喬司さんが車で集めてまわる。山の手入れをしなくなった近年は、入手が難しくなり、20キロも離れた山間の村まで 集めに行くという。
さらに難しいのがアマモである。アマモは遠浅の海に繁茂し、魚の産卵や生息場所として欠かせない。戦後、瀬戸内海汚染によりアマモが少なくなると、漁民か ら容易に刈り取ることを許してもらえなくなった。今は最もアマモが大きく育つ夏に許可を得て、20キロも離れた所に刈りに行く。刈り取ったアマモは干して 乾燥させて保存し、すこしずつつぎたして一年間使用するのだという。
枝木は『あつい方』の石風呂で焚き、その熱を『ぬるい方』へまわして同時に両方を暖める。また、『あつい方』の中にドラムカンが壁際に並べてある。なか に真水と潮水が入っていて、余熱でわかし石風呂の前にある洗い場のカランと潮湯にパイプで引いている。こうした施設は昭和23年に父親が石風呂をはじめた ときからのものである。そこには合理化経営により、通年営業をはかろうとした経営者としての強い意志が見てとれた。それでも喬司さんが話すように、金もう けを考えれば、続けられる仕事ではない。父親からうけついで20年間焚き続けた喬司さんの言葉だけに重みがある。
枝木に点火したのは、11時すこし前、枝木からの炎と黒煙が入口からたちのぼる。やがて白い煙に変わり煙がたたなくなる11時半頃から、燃え残りのおきを 外から掻き出し、細かなおきは室内に入って箒で掃き集める。次に濡れ筵とアマモを敷きつめる。入口付近で見ているだけでも顔が熱くなるのに、喬司さんは作 業中海水パンツ一つである。全身からは大粒の汗が吹き出していた。準備を終えた喬司さんは、『地獄に仏とはこのことよの、背中がにえくりかえりよる』と言 いつつ、眼前の海に快さそうにつかった。石風呂が本当に好きで、その医療効果を信じているからこそ、苦しい作業もつづけられる、と私には思えた。
アマモを敷き終わったのは12時を少し過ぎていた。取りはずしていた『あつい方』の入口に木の扉を取りつけ、密閉すると『午後1時から』の木札を垂らす。 約1時間密閉することで『あつい方』に熱気をため、90度くらいまで温度をあげていくのである。『あとはお客さんにまかせっきりよね』と言うと、喬司さん は旅館に帰っていった。……
準備がととのうと、待ち兼ねていた老人たちが順序よく『ぬるい方』へ入っていく。扉のガラス窓から内をのぞくと、壁に背を向けて足を前に投げ出し、円く整 然と座っている。後で聞くと、この日は土曜日で平日に比べ混むので、だれがいうでもなく奥から順に座ったのだという。これが客の少ない火曜日などは、アマ モの上に寝そべる。入浴者の自主管理にまかせられるのも、石風呂をよく知る常連客が多いからといえる。……
2回目は横になった入浴者が3人いるそばに横になったが、みな私と頭の方向が逆である。隣の老婆に尋ねると、『あつい方』との仕切りの壁に足を向けるのが きまりだという。『あつい方』でも同じように仕切りの壁側に足を向ける。直接ではないにしろ、他人の頭に足の裏を向けるのをさけるためで、結果的に方向が 決まり、後から入った人が仕切りに沿って奥に行くとき他人の頭の上をまたがなくてすむのである。
入ったときから入口においてある大きな団扇が気になっていた。老婆に尋ねると、近くにいた老人が団扇を手に取り天井を、続いて私に向けてあおいでくれた。 途端に熱い熱気が体をつつんだ。冬場はことに気温が下がり、扉をあけて出入りするだけでも室温が下がる。入った人は、中の人に迷惑がかからないよう天井に 向けて団扇をあおぎ室温を上げるという。……
石風呂への入浴の仕方や作法を通してわかるように、人を思いやる気持ちは細やかで、さらに飾り気のないおおらかさがある。経験を積んだ老人から、生活の中で教わる機会の少なくなった今、この体験はわすれがたいものとなった。
忠海の石風呂は、戦後まもなくのはじまりで開始はおそい。それが今では石風呂を愛する経営者と入浴者によって伝統的な石風呂の世界を伝える貴重な場所となっている。(P144~151)
この本の著者あとがきに印南敏秀氏の「石風呂その後」という一文があり、ここでも忠海の石風呂について触れている。
「石風呂の調査をはじめて30年がすぎ、『あるくみるきく』を書いてからでも23年が過ぎた。今年(平成22年)も私は石風呂に 入ったが、石風呂をめぐる状況はきびしくなり、今も営業しているのは広島県竹原市忠海の石風呂だけになった。(中略)広島市内の丹那の石風呂は木造三階建 てから、鉄筋コンクリートの近代建築に建て替えた。2階に居酒屋をつくり、客の待ち時間の便宜をはかった。曜日ごとの石風呂ファンの会は続くなど、大都市 広島のオアシスとして継続するものと安心していた。ところが広島市周辺では、燃料になる枝木やアマモを入手することが難しくなった。主人の岡本良雄さんは がんこで、一切偽物は使いたくないといって石風呂を廃業した。
忠海の石風呂だけが現在も、当時と変わらず営業を続けている。中部瀬戸内海に残る最後の石風呂として、芸予の島々から多くの入浴客が船で入りにきていた。 現在では瀬戸内地域を中心とした日本の石風呂の最後の聖地となっている。すぐ前の芸予の島々と海を眺めながら、伝統の枝木とアマモを使った石風呂に、午前 11時30分から午後9時まで自由に入って1200円とはなんともありがたい。主人の稲村喬司さんに『体に気をつけて一日でもながく石風呂をお続けくださ い』とお願いしたい。」(P219)