三原市中央公民館で二松学舎大学創立140周年記念事業『平賀晋民の世界』講演会が開催された。主催は二松学舎大学文部科学省私立大学戦略的研究基盤形成支援事業(SRF)と三原市教育委員会で、講演は二松学舎大学特別招聘教授・稲田篤信『平賀晋民の人と学問』、同じく二松学舎大学特別招聘教授・野間文史『平賀晋民と四書五経』であった。 稲田篤信『平賀晋民の人と学問』では、平賀晋民の略年譜とさまざまなエピソードが紹介された。
1722(享保7)年 忠海の木原家に生まれる。
1735(享保20)年 土生家の養子となる。
1755(宝暦5)年 この頃、養父の喪に服す。
1758(宝暦8)年 この頃、三原の順勝寺で頼春水を教える。
※ 忠海西庄学校にある石碑『平賀先生』の文字は頼春水の書。
1761(宝暦11)年 肥前蓮池龍津寺の大潮に学ぶ。
1772(明和9)年 青蓮院法親王に侍読として仕える。
※ 絵巻・版本『嘉(加)島記』 嘉島(尾道市向東町加島)は、尾道の豪商泉屋
(松本重政)の別荘のある島。「明和壬辰人 青蓮院法親王侍讀安藝平賀晋人識」
とある。絵は福原五岳。字は高安蘆屋、他に伊藤善詔、江村北海など著名人が参加。
1779(安永8)年
『兼葭堂日記』に初出。
※ 木村兼葭堂(1736~1802 江戸中期の文人。大坂の人。造酒業を営むかたわら学問を
好み博学多芸で、詩文、書画、特に、物産の学に通じ、また珍書・奇書・骨董を集め、文人
墨客と交わり、著作も多い。(『角川日本史辞典』)
1782(天明2)年 この頃大坂に出る。『平安人物志』に名前が載る。
※ 『平安人物志』は京都の人名録で「平賀晋民字房父号中南富小路四条上ル町」と
ある。
1788(天明8)年 この頃、松平信明に招聘される。
※ 松平定信の側近の内幕情報(『よしの草紙』)には、大潮和尚の門弟。加川元享
の推薦。定信も信明も「御信仰」とある。
1790(寛政2)年 『浪華郷友録』に名前が載る。
※ 『浪華郷友録』は大坂の人名録で、「平賀晋民字房父号中南伏見町栴檀木西入る」
とある。ここには儒家として懐徳堂主・中井積善(竹山)、尾藤肇(二洲)、奥田元継
(仙褄)の名も載っている。
奥田元継『拙古先生筆記』には次のような平賀晋民のエピソードが載っている。平
賀惣右衛門大坂に下ると直に来らる。「をまえは喰へとも飲めともいはぬ人じゃ。
面白ひことじゃ」と云はるる。『左伝』の説などを弟子ををこして手前にて写され
たり。惣右衛門芝居好きなり。行所がなひゆえ也。学者はゆき所のないもの也」
1791(寛政3)年 『春秋稽古』成る。
1792(寛政4)年 没
1818(文化15)年 『本朝古今書画便覧』に名前が載る。
野間文史『平賀晋民と四書五経』は経学者平賀晋民の由来について詳しく話された。
平賀晋民はその著書『学問捷径』において「予僻邑に生じて学問師承なく、独学なれば甚だ孤陋にして寡聞なり、されども諸家の説に於て我が一心を以て取捨すれば偏執の失なし。始め朱子の説を観て略通じ、其の道を信仰す。後ち『論語徴』・『二辨』看、古注に渉り仁斎に及ぶまで、渉猟して各々其の旨を得たり。予自ら思うに諸家各々臆を以て説を立つ。我もまた試みに六経を考え説を立て一家の学を成さんと思い、先ず三家を、六経に考えて其の非を以てこれを廃せんと欲し、始めに程・朱を考ふるに。伊・荻二家の非斥する所は百分の一にして、悉く道に合わず。仁斎は六経を廃すれば云うに足らず。徂徠に至りては予が学力の足らぬ所か、才識の及ばぬ所か、章句の中には議すものあれども、道の大統、いちいち六経に吻合す。なをさまざま難を入れ見しかどついに克つこと能はず。ここに於て角を崩して心服し、物説を以て聖人の真志としてこれを奉ず。」と述べて荻生徂徠に私淑した経学者であることを示している。
そしてさらに同書で「徂徠老爺の説頗る取捨すべきものあり、又足らぬ所あり。予不才にして四十の歳に至りて、始めて無学唐人となりたり。それまではひたすらに文学のみをせり。既に無学唐人になりたれば、詩文学を廃してひたすらに経学に入る。物子六経に手を下すに暇あらず。六経明らかならざれば道明らかならず。故に先ず六経を治む。『春秋』既に成り、『詩』の註釈も亦成る。『易』は大綱巳に立ち、『礼』ほぼ論辯す。知らず何れの日か成就せん。年齢すでに傾き精神徐く疲る。其の上糊口の業に日を費やす。恐くは辨正に暇あらざらんことを。」と述べている。
ここで述べられている六経とは先秦の時代に打ち立てられた経学で、詩、書、礼、楽、易、春秋の6つの経からなっている。それが漢の武帝の時代に楽が礼に含まれて、易経、書経、詩経、礼経、春秋経の五経となった。春秋時代は242年間続いたが、その最後の時期に孔子が一生を送る魯の時代がある。そのため春秋経が孔子の思想を込めた経書となった。四書とはこの五経に入る前の事前学習書として『大学』『中庸』『論語』『孟子』をあげたものである。
唐の時代には九経(周易、尚書、毛詩、儀礼、礼記、周礼、左氏伝、公羊伝、穀梁伝)、宋の時代には十三経(易経、書経、詩経、儀礼、礼記=大学・中庸を含む、周礼、左氏伝、公羊伝、穀梁伝、論語、孝経、爾雅、孟子)となる。
平賀晋民はこれらの中で一番正しい解釈は「春秋左氏伝」であるとし、安永4(1775)年に『春秋集箋』を刊行、15年後の寛政3年のに『春秋稽古』を脱稿した。そしてその14カ月後に没した。まさにライフワークの偉業であった。