竹原書院図書館にて白幡洋三郎編著合田健監修『瀬戸内海の文化と環境』(社団法人瀬戸内海環境保全協会)という本を借り出した。この本の中で近世の海運の要衝として忠海港について述べられているので紹介しよう。
瀬戸内海を移動する「モノ」の実例を、内海地域に存在する多くの港町のなかから、安芸国忠海港を取り上げてみてみよう。忠海港にある問屋(江戸屋)の「客船帳」からわかる交易地・交易品は、次のようなものである。取引地域は、中四国や上方はもとより、北は出羽・越後・佐渡・加賀・能登などの西廻り航路沿岸沿岸諸地域、西は対馬・壱岐を含む九州全域、東は尾張からも来船していた。来船数では、讃岐・周防・豊後・播磨・石見・安芸の国々がとくに多かった。
交易品としてまず挙げられるのは、主に商品作物栽培で利用される金肥(購入肥料)としての干鰯などで、港の後背地で綿や煙草栽培を行っていた農村に売却され、一部は芸備両国や備中玉島・笠岡などに再転売された。また各地の特産品として、周防の縞木綿・石炭・豊後の七島(表)、日向の椎茸・材木、薩摩の砂糖、肥前の唐津物・焼物・土瓶、尾張の唐津物、紀伊のみかん・杉丸太、摂津の酒・みりん、淡路の瓦、播磨の醤油・素麺、讃岐の白砂糖・うちわ、阿波の藍玉、土佐の鰹節・椎茸、伊予の紙・蝋など多種多様な「モノ」がみられた。
その多様な「モノ」の移動の背景には、海運のあり方の変化があった。とりわけ17世紀後半の寛文11、12(1671~1672)年頃、東北・北陸地方の米穀などを江戸に運送するため、幕府の命を受けた河村瑞賢によって東廻り西廻りの航路が整備れたことは、近世水運の大きな画期となった。すでに中国・四国・九州地方と大坂をつなぐ水運の「場」として位置付けられて瀬戸内海は、西廻り航路の整備によって、「天下の台所」として全国市場の中核に位置する大坂と、東北・北陸・山陰地方を結ぶ物資移動の大動脈の一翼を担うこととなった。河村瑞賢による西廻り航路の整備方式では、瀬戸内海の廻漕船として讃岐の塩飽島、備前の日比浦、摂津の伝法・河辺などの船を使用することとしていた。日本海側の廻船業務に従事した北国船が瀬戸内海に、伊勢や尾張の廻船が日本海側に、いずれもいまだ本格的に進出していなかったのに対して、瀬戸内海方面の塩飽船などは、近世初頭にはすで日本海方面へ進出し、また西国から江戸への城米廻漕にあたるものもあったことなど、西廻り航路の海運にたずさわる条件をもっていると考えられたからである。しかし、享保年間頃、幕府が江戸の廻船問屋に越前の城米の江戸・大坂への廻米を請け負わせたように、幕府や諸藩が直接に雇う方式から廻船問屋へ請け負わす方式へと変化していくなか、塩飽廻船はしだいに衰退していった。
一方、一八世紀半ば頃から、北前船などが大坂廻漕を目的に瀬戸内海を盛んに航行するようになった。北前船については諸説もあるが、一般的には蝦夷地を含めた北国地方と大坂との間を西廻り航路によって運航する船で、ニシン・数の子・昆布などの海産物や干鰯・〆粕など肥料をはじめとする諸品を売り捌いたりした。当初、大坂への回漕を主な目的にしていた北前船は、やがて瀬戸内海沿岸部や島嶼部との直接取引もさかんに行うようになっていった。(『瀬戸内海の文化と環境』P63~64)
江戸時代後期になると、藩の権力・統制を越えて、芸予の地域交流は緊密化していった。忠海港と伊予廻船との交易の場合、忠海港からの移出品のうち、塩・綿実・煙草・菰俵・苧など安芸国特産品が多くなっている。これは忠海の問屋が、その周辺及び後背地において生産される物産を売却していたものと考えられる。移入品では、干鰯をはじめとする肥料類が圧倒的に多く、また伊予の特産品である炭・蝋・紙などももたらされていた。
次に、忠海港の問屋と取引のある伊予廻船の来航地域については、大略三つに分類される。第一地域は、岩城・伯方・大三島など芸予の諸島を中心とする地域で、芋・人参・みかん、橙・鍬などの生活関連物資の取引が多く見られた。第二地域は、川之江・西条・波止浜などの伊予国の東・中部沿岸諸港で、取引額は最も多く、紙・取善・箱善・炭・下駄など伊予国産品や他国物産をもたらした。この地域は諸藩や幕領が入り組んだところで、政治的・経済的に地域の中核であった。第三の地域は佐田岬より南の宇和海に面した南予地域で、雨井・穴井・宇和島・八幡浜などであった。この地域からは宇和島藩の蝋・紙や干鰯などの海産物を忠海に移出していた。また、忠海からは塩が積み出されており、多喜浜・波止浜などの塩浜があった第二地域への移出品とは大きく異なっていた。以上、江戸後期の瀬戸内海における芸予の交易の一例を示したが、そこには日常生活品も含めた密接な経済交流とそれがもたらす「生活圏」ともいうべきものがみられ、二一世紀に向けて橋で結ばれた地域には、それに先駆けて、大量のモノを移動させる南北の海道が船によって形成されていたのである。(前掲書P66~67)