東京神田の長島書店という古書店で、廣山堯道著『塩の日本史〈第2版〉』という本を手に入れた。この本のなかに明治時代の製塩技術に関連して忠海塩浜の記述があるので紹介しよう。
「明治政府は、明治10年・14年に内国勧業博覧会を開き、14年には農商務省を設置し、この頃から製塩に関心を示し始める。明治15年農商務省の地質調査所に塩業の実態調査を行わせた。所長和田維四郎は『食塩改良意見』を公表し、製塩法は欧米のものと比較し改良すべきであるが、在来の方法が本土固有ノモノである以上、気象条件の比較なしに安易に外国の方法を模倣すべきではない。もた休浜法を肯定し、さらに改良策実行のため十州同盟を一層強化すべきであると主張している。同省分析係長オスカー・コルシェット(独)は『日本海塩製造論』を報告し、その第一編で製塩の実態を設備・操作・経営面から調査分析、第二篇で改良意見を述べている。採鹹部門の改良意見としては塩池蒸散法(天日塩田で採鹹する)、傾斜塩田法(流下式塩田)と枝条架蒸散法を長期的改良方向とし、当面の改良としては塩田面の有効利用と作業に機械力を用うることを説き、煎熬(せんごう)部門に対しては、長期的には洋式塩釜の導入、当面は石釜の釜と竈の改良・余熱利用をのべている。(中略)政府の動きに対して、十州塩田現場では大きな改良策はみられなかった。ただ改善に積極的であったのは井上甚太郎と野崎武吉郎が経営者的立場において、田窪藤平・甥九十郎が藤平流(宗方流)・田窪式と称する具体的な設備・作業の改善を実行~指導する程度にとどまった。」(P179~180)
「日清戦争は、塩技改良機運を高めた。明治28年清国への塩輸出のため奥健蔵・井上甚太郎を中国に派遣したが、清国塩業の優秀さを知り、国内塩業改善の必要を痛感した。そのため29年大日本塩業協会を設立した。30年には第2回水産博、水産諮問会が開かれ、併行して塩業協会第1回大会がもたれた。諮問会の建議により31年塩業調査会(翌年より塩業調査所)が設けられ、調査所は松永と津田沼に製塩試験所を開設した。(中略)塩業界でも各種技法が次のように勃興した。枝条架法=島根県杵築(吉岡勘之助)、福島県小名浜(平井太郎)。布取り法=三重県黒部他(上地八兵衛)、布取り法・日乾式採鹹法=愛媛県三喜浜(丹沢六郎)。流動塩田=味野野崎浜(岩松善次郎)、千葉県金谷・勝山、愛知県三谷・大塚。天日結晶法=多喜浜(小野友五郎)、天日結晶法・即果塩田法=広島県忠海(吉原音五郎)。以下略」(前掲書P181)
これらの記述をみると、忠海の塩田が明治期の製塩技術の開発に役割を果たしたことがわかる。