竹内正浩著『軍事遺産を歩く』(ちくま文庫)という本の中に大久野島が次のように紹介されている。
大久野島を語るとき、必ずといっていいほど引き合いに出される二つの言葉がある。一つは「毒ガスの島」であり、もう一つは「地図 から消された島」というものである。大久野島には昭和初期から毒ガスを製造した工場があったから、「毒ガスの島」というのはあながち間違いではない。しか しそこに「地図から消された島」という密やかな響きをもつ形容詞がつくと、いかにも毒ガスの島にふさわしい薄気味悪さや陰謀の匂いさえ漂う。だが、果たし てほんとうに地図から消された島だったのか。
この疑問は、旧い地図を閲覧できる東京九段の関東地方測量部で氷解した。陸軍参謀本部陸地測量部(現・国土地理院)が作成していた当時の国土基本図である 5万図の履歴をあたったところ、大久野島が掲載されている「三津」の図面から大久野島が消えていたのは昭和13年4月30日発行の一枚きり。昭和6年9月 30日発行の図面まではすべて大久野島は記載されていたのである。同じく2万5千図の、該当する「明神」という図の履歴を見ると昭和10年4月30日発行 のものまではちゃんと掲載してある。載っていないのは昭和13年4月25日発行の一枚だけだった。しかも戦時中発行された市販の広域図には、相変わらず大 久野島は明記してあるのだ。
地図から消された島というと、地図上から島の存在だけが消滅しているイメージを抱く。しかし、実際の昭和13年発行の地図を見ると、周辺の海域ごと丸く空 白になっている。こうしたことは、戦前は別に珍しいことではなかった。要塞地帯や軍港、皇室関連施設などで普通に見られたことだ。
(竹内正浩著『軍事遺産を歩く』(ちくま文庫)P168~169)
自らの著書に『地図から消された島』という題名をつけた武田英子は、その序章で次のように述べている。
すでにもうこの島の過去は、レジャー島の楽しげな粧いに埋もれ、時とともに見えにくくなっている。しかし、心を止めて見れば、桟橋近くの広場に島の歴史を刻んだ碑があることに、まず、気づくはずである。
「大久野島毒ガス障害死没者 慰霊碑」(1985年建立)は、かつてこの島に陸軍の毒ガス工場があった時代に、その秘密兵器製造に従事して傷つき倒れ、そ の後死亡された方たち千三百余人の鎮魂を祈念して建立されたものである。いのちがけで製造された毒ガスは、ジュネーブ協定に反して戦場で使用された。(中 略)大久野島毒ガス問題を問うことは、過去の真相を知るのみならず、今日に及ぶ化学戦の実体を問う意味からも重要なのだが、当時まだその全容は不明だっ た。手がかりは毒ガス傷害者の方たちの証言や、その治療と毒ガス後遺症の追究を続ける医師たちの話、教師たちの掘り起こしの報告などであった。
まだまだ、多くの事実が埋もれていることを知って、私は及ぶ限り追跡した。調べていくうちに、大久野島がすっぽり消された地図を見つけた。5万分の1の地図の微細な島々のなかに、大久野島だけが白紙を貼ったように消されていて異様であった。
国土地理院関東地方測量部のマイクロフィルムで見ると、1931(昭和6)年のには大久野島は存在するが、つぎの保存フィルムの1938(昭和13)年 版に島の姿はない。地図上に大久野島がよみがえるのは、1947(昭和22)年版からである。戦時下の地図編纂は参謀本部が掌握し、要塞地帯や重点地点を 消した例は多いと、国土地理院担当者は語っていた。
消された島を原点にして、大久野島毒ガス問題を見つめれば、毒ガス兵器がどのように生まれ育ち、憎むべき鬼子となったか。以後もその魔性の力を磨き続け、化学兵器のパワーはどのように憎悪化したか。その過去が見え、現在と将来が見えるはずである。
(武田英子著『地図から消された島・大久野島毒ガス工場』(ドメス出版)P8~10)
最近、今尾恵介著『地図で読む戦争の時代』(白水社)という本が刊行された。その中に「毒ガスは地形図の空白で作られた」という章があるので、一部を抜粋してみよう。
古書店でいつものように地形図を漁っていたら、上のフチが真っ赤に塗られたものを見つけた。印刷されたというより、ハケのような もので赤インクを着けたようにも思われる。1枚目は5万分の1の地形図「三津」で、現在の東広島市安芸津町三津とその周辺が収められているのだが、右上端 には「軍事極秘(戦地ニ限リ極秘)」とものものしく印刷されていて強烈だ。2枚目は「5万分の1地形図 広島3号 呉要塞近傍2号(共15面)」とある。 「広島3号」は5万分の1地形図の整理番号だが、軍事極秘の理由は「呉要塞近傍」だ。つまり重要な軍港であり、海軍の司令部たる鎮守府が置かれている呉市 に近く、敵に地形その他を知悉されると困るのである。
「マル秘」という言葉は最近でも口語でよく使われ、今でも会社その他の組織で用いられているが、戦前の地形図の場合、秘密の度合いに応じて「秘」「極秘」 「軍事極秘」「軍事機密」の4段階に分けられていた。(中略)そもそも戦前に一般向けに発行された「地形図一覧図」にはこれらの地域の地形図は図名さえも 掲載されておらず、代替の図として軍事施設や地形など細部を大幅に省略された「交通図」が申し訳程度に発行されているだけであった。(中略)
1枚目の赤い縁の「三津」は昭和7年鉄道補入版だが、同じく「昭和7年鉄道補入」の2枚目は、図の北東部分が空白になっている。これが何を意味するかとい えば、2枚目は隠したい部分を空白にして一般に頒布したものであり、1枚目は一般人が入手できなかった軍事極秘の地形図ということだ。
「軍事極秘」はかなり秘密度のレベルが高いため、図の裏面には識別番号が捺印されていて、この図の場合、「軍事極秘天第壹六八六号」と赤インクで捺されて いた。つまり地形図の所持者が一枚一枚特定されているのだ。だから紛失した場合など厳罰が待っていたようで、だからこそ戦場の混乱の中で紛失した場合に過 度な責任を負わせられないため「戦地ニ限リ極秘」と、秘密のランクを一段落とす旨の但し書きがある。(中略)この図で一般人の視界から抹消されたエリアの 真ん中にある大久野島には、昭和4年(1929年)から化学兵器製造施設、いわゆる毒ガス工場が設置され、イペリットやルイサイト、催涙ガスなどが大量に 生産された。もちろん敗戦によって生産は停止したのであるが、半世紀以上も経った中国で、日本軍が戦時中に地中に埋めたこれらの物質が何らかの事情で地上 に掘り起こされ、知らずに触れた現地の人が健康被害を受ける事件があった。土壌汚染も心配だ。
後世まで深刻な影響を及ぼす多いなる遺産が、この地図の空白の裏側で作られていたことを忘れてはならないだろう。
(今尾恵介著『地図で読む戦争の時代』白水社P148~151)