私が忠海高校野球部のマネージャーになったのは1965年(昭和40年)で2年生になったばかりであった。先輩のマネージャーが卒業したので、同級生の長岡に誘われて入部した。当時部員は9名で前年の秋に入部した選手を加えてやっと春の大会に出場できた。
1965年の春の大会の東部地区予選で、忠海高校は東部地区の雄・福山電波高校、尾道商業をそれぞれ1対0で破るという快挙を成し遂げ、続く三原高校を4 対2、府中高校を14対0、松永高校も5対4で破って春の県大会への出場権を獲得した。当時、福山電波高校には県内屈指の好投手で後にヤクルトや巨人で活 躍した浅野投手がおり、尾道商業には浦上という長身の好投手がいた。春の予選の段階では、忠海高校の選手は9名で、一人でも怪我をしたら試合に出れないと 状態だったが、エース桧垣は絶好調で、強打を誇る2校をいずれも完封した。そして2試合とも前年の秋に入部したばかりの谷崎のスクイズで1点をもぎとった ものだった。
春の県大会では、福山電波、尾道商業を完封した桧垣を擁する忠海高校はダークホースと評されていたが、残念ながら1回戦で三次高校に敗退した。この試合で セカンドを守った中野が、センターに抜けるヒット性の当たりをジャンプ一番逆シングルキャッチし、ダブルプレーにしとめたプレーが記憶に残っている。当時 の『デイリースポーツ』に「中野二塁手の美技光る!」と報じられた。
この年の夏の大会は、1回戦で因島高校を9対2、2回戦で加計高校を7対0で破り、3回戦誠之館高校戦は3対0の劣勢を9回に同点に追いつき引き分けた。翌日再試合となったが4対2で惜敗した。
私は野球部のマネージャーであるとともに新聞部員でもあったので、この年の夏の大会での忠海高校の活躍を『忠海高校新聞』第71号に報じているので紹介しよう。
《1回戦》7月26日 広島市民球場
因島 000 000 20 2
忠海 001 110 51Ⅹ 9Ⅹ
我が校は投打ともに因島に勝る実力を見せ、因島を破った。3回裏我が校は宮本二飛のあと、村上が四球で出塁し、打者川崎の時二盗、続く寄本の中前適時打で 1点を先取し、4・5回も伊藤の中前適時打、寄本の右前適時打でそれぞれ1点を加え、3対0とリードしたが、7回表因島は2本の安打と四球で2点を返し た。しかしその裏、村上の左中間二塁打、川崎の中前打で1点、それに因島の失策や四球によって大量5点を取り試合を決定的なものにした。なお桧垣は因島を 三安打に押さえ、三振8を奪った。
《2回戦》7月28日 広島市民球場
忠海 100 003 12 7
加計 000 000 00 0
1回我が校は宮本が一塁強襲安打で出塁、二盗し、次打者村上が左翼線二塁打を放って先取点をあげた。その後5回までは両軍無得点で6回を迎えた。この回先 頭の宮本が四球で歩き二盗、続く村上も四球、ここで重盗を敢行、無死二三塁となり川崎が中前打を放ち加点。続く寄本は遊ゴロ、これによって村上は三本間に 挟まれたが、捕手の高投によって2点を追加し4対0となった。続く7回は、伊藤の投手強襲安打と3四死球で1点、8回は二死一二塁で宮本の左翼線二塁打で 2点を加え、8回コールドゲームとした。この試合も桧垣は加計を3安打に押さえ、三振8を奪った。
《3回戦》7月29日 広島市民球場
誠之館 000 002 010 0 3
忠 海 000 000 003 0 3
我が校の気力・闘志がこの試合を引き分けにする原動力となった。4回裏我が校は二死二三塁という好機をつかんだが、川崎が遊飛に終って無得点、桧垣も5回 まで誠之館を2安打に押さえる好投をみせたが、6回表誠之館の一番打者金光の一二塁間を破る安打と小林の四球で二死一二塁の好機に5番宇田が左中間を破る 三塁打を放って2点を先取した。また8回にも2個の失策をあしがかりに4番の小林が右犠飛をあげて1点を加点した。しかし9回裏我が校は長岡の左前安打、 伊藤の右前安打、宮本のセーフティバンドで無死満塁とし、村上の左前安打で2点を返し、桧垣のスクイズで同点とし、延長へもつれこんだ。延長10回は両軍 三者凡退で結局中止再試合となった。
《3回戦再試合》7月30日 広島県営球場
忠 海 000 010 100 2
誠之館 210 100 00Ⅹ 4
1回裏、誠之館は4番小林の適時打と失策で2点を先取、2回、4回にもそれぞれ1点を加えて4対0となった。しかし5回表我が校は村上を走者において寄本 が中前打を放ち1点を返した。また7回にも川崎の左前安打を左翼手が後逸する間に、川崎は三塁に進塁、打者寄本の時、捕手の牽制球が走者の頭に当たり走者 生還。最終回にも村上の左前安打などで必死の反撃を試みたが惜しくも敗れた。
ちなみに、この年の忠海高校のラインナップは1番(左)長岡、2番(遊)伊藤、3番(中)宮本、4番(捕)村上、5番(一)川崎、6番(三)寄本、7番(投)桧垣、8番(二)中野、9番(右)谷崎であった。
翌1966年(昭和41年)の夏の大会は、2回戦福山商業を4対0、3回戦可部高校を5対1で破りベスト8に進出、準々決勝で福山工業に13対0で敗れ た。この年のラインナップは1番(中)長岡、2番(捕)伊藤、3番(遊)島田、4番(一)佐藤、5番(三)寄本、6番(投)桧垣、7番(右)上田、8番 (二)中野、9番(左)谷崎であった。
1967年(昭和42年)夏の大会も1回戦海田高校を2対1、2回戦修道高校を8対4で破り3回戦に進出したが、3回戦で広陵高校に6対0で敗れた。この時のラインナップは、1番(中)柴田、2番(捕)千葉、3番(遊)島田、4番(三)佐藤、5番(左)上田、6番(一)
永谷、7番(右)橋塚、8番(投)岡、9番(二)倉橋であった。
当時、広島県内には後にプロ野球やアマチュア野球で活躍する有力選手がたくさんいた。広島商業の山本和行(亜細亜大学→阪神にドラフト1位で入団。通算投 手成績116勝106敗130S防御率3.66)、三村敏之(ドラフト2位で広島に入団。内野手後に監督。通算打撃成績・打率255、本塁打149、打点 490、盗塁49)、福山電波高校の浅野啓司(産経・アトムズ・ヤクルト・巨人で投手。通算投手成績86勝116敗10S防御率3.39)村田兆治(ドラ フト1位で東京に入団→ロッテで投手。通算投手成績215勝177敗33S防御率3.24)、尾道商業の井上幸信(ドラフト3位で大洋に入団。外野手。通 算打撃成績000)、北川工業の伊原春樹(芝浦工大→ドラフト2位で西鉄に入団。その後巨人・クラウンで内野手後に西武の監督。通算打撃成績・打率 241、本塁打12、打点58、盗塁7)、広陵高校の川内雄富(ドラフト17位で広島に入団。後に巨人。通算打撃成績・打率152、本塁打2、打点4)須 山成二(ドラフト1位広島に入団。捕手→投手。2試合登板0勝0敗。後にトレーナー)河井昭司(ドラフト3位で広島に入団。通算打撃成績000。内野手) などである。
ノンプロで活躍した選手には尾道商業の大田垣、広陵高校の宇根がいる。いずれも投手として活躍し、アマチュア球界の監督を勤めその指導者となった。
(『忠海高等学校の100年』「忠海高校野球部回想・昭和40年~42年」P271~273)
(森岡浩編著『プロ野球人名事典1999』日外アソシエーツ)