福山出身の劇作家に小山祐士という人がいます。
瀬戸内海を舞台にしてそこに暮らす人々の心情や生活を描くことによって戦後の日本の縮図を凝視しようとした作家です。 代表作に『瀬戸内海の子供ら』『泰山木の木の下で』『黄色い波』などがありますが、その小山祐士が大久野島 をテーマにした戯曲に『日本の幽霊』があります。
小山祐士は『自作を語る』の中でこの作品についてつぎのように書いています。
「こんどの『日本の幽霊』の主人公というべき“花之島”は、疎開中にも、東京に帰ってから出かけた旅行の時にも、何度も何度も、汽車の窓や汽船のデッキの 上から眺めていながら、“その小さな島が毒ガスの島だ”ということは、うかつにも全然知らなかった。 その島の名前さえ知らなかった。 その島は地図の上からは消されてしまっていたので、私が知らなかったのは当たり前かも知れない。 花之島が毒ガスの島だと知ったのは、つい5、6年前である。それからというものは、私は広島や瀬戸内海地方に出かけると、たいていの時、その島の町に立ち 寄るようになった。 ほかの仕事のことで四国の松山や高知に出かけた時にも、わざわざ回り道をして、その島の町に行ったこともある。あらゆる階級のあらゆる職業の人たちに会っ て、話を聞くために、十数日、付近の旅館に泊まったこともあり、二カ月あまり、その町に下宿させて貰ったこともあった。
1927年に軍部は“一般人の立ち入りを禁ず、陸軍造兵廠火工廠”の立札を立て、1929年の春、毒ガ 『日本の幽霊』に出演した市原悦子スの生産を始め、終戦まで16年間という長い年月にわたって毒ガス兵器を作っていたのだから、取材することはいくらでもあった。
1927年といえばジュネーブ協定で、国際法として毒ガスの厳禁が再確認されたのが1925年であるから、そのジュネーブ協定の翌々年である。
私は、実に沢山の取材をしていながら、その島を舞台にして戯曲を書くということは、過去の軍国・大日本帝国の恥部を暴き出すようで、大変気が重かった。
しかし、現在も後遺症で苦しんでおられる沢山の患者の方たちのことを思うと、その方たちに代わって、私は私なりに、戯曲を書くことによって化学兵器の恐ろしさを世間に訴えなければならないと、いつも思い続けていた。」
(福山文化連盟発行『瀬戸内の劇詩人 小山祐士』から)
ここに出てくる花之島はもちろん大久野島のことであり、忠海は磯浜町として登場します。
『日本の幽霊』は1965年と1967年に俳優座によって東京、地方、中華人民共和国と、合わせて百回以上公演されています。
なお、この戯曲はテアトロ社刊『小山祐士戯曲全集』に収録され、竹原書院図書館にはコピーがあります。