忠海高校同窓会事務局にはさまざまな分野で調査研究を行っている方々が訪れる。このたびは教育史の文章として「明治後期の中学校における修学旅行-教育の目的と乖離-」を『房総史学』という雑誌に発表された千葉県立市川工業高校・菅澤康雄教諭の論文の中から忠海中学校についての記述を抜粋して紹介しよう。
「わが国の修学旅行の起源は、1886(明治19)年2月に東京師範学校が行った『長途遠足』とされている。この『長途遠足』は兵式行軍に留まらず、学校としての性格から『学術研究』旅行の目的をも兼ねさせるように工夫し、『修学旅行』と名付けて実施された。東京師範学校の『長途遠足』を手本に、同年に師範学校へ、翌年には中学校へと修学旅行は広がっていった。さらに実業学校や高等女学校へと拡大し、中断や廃止はあるものの、戦前期の中等諸学校において50年以上ものあいだ続けられた、わが国の教育活動の一つである。(中略)明治政府は殖産興業政策の一環として、海外の万国博覧会に参加し、国内では内国勧業博覧会を計5回ほど開催している。地方においては、共進会や水産博覧会なども催されている。第3、4、5回の内国勧業博覧会や共進会、水産博覧会に中学校をはじめ、小学校、師範学校、高等女学校、実業学校、高等学校が修学旅行で訪れている。
第3回内国勧業博覧会は189O(明治23)年4月1日から7月31日まで、東京上野公園で、第4回は1895(明治28)年4月1日から7月31日まで、京都岡崎で、第5回は1903(明治36)年3月1日から7月31日まで大阪府天王寺で開催された。この第5回内国勧業博覧会の参加校は144校であり、筆者の調査では34校の中学校の参観が判明した。その中に4月12日から忠海中学校が参観したことが明らかになっている。(中略)明治後期になると修学旅行で鉱山(金、銀、銅、炭鉱)を見学する学校が増えている。西日本の鉱山を訪れた中学生の感想から、参観の目的と感想を考察してみよう。広島県立忠海中学校の3年生50名が、1908(明治41)年11月11日より、今治、新居浜周辺を修学旅行で訪れ、13日に別子銅山を見学した。山麓に登り、銅山を見た後、忠海中学生は『此処にて先ず驚くは天を仰いで、眼に写せし怪物。何国の、飛行艇かも、果た鳥か、見れば、さらあらず、索道の箱、絶碧高し千仭の上を、一針金の空に懸りて、箱様の物の其所を往来する景は、断崖元山と相対して、怪偉譬ふべきものを知らず』という感想を書いている。忠海中学生は空中を架け渡したケーブルに吊るされた箱を『怪物』と言い、それが行き来する姿を『怪偉』であり譬えられないと述べている。
この時代の修学旅行の特徴のもう一つは、軍関連施設の見学である。中でも江田島の海軍兵学校と呉鎮守府の見学は西日本の多くの中学校で実施されている。海軍兵学校は、海軍兵科将校の養成機関として1876(明治9)年8月に海軍兵学寮を改称して作られ、1888(明治21)年8月に東京築地から江田島に移転した軍の施設である。海軍兵学寮以来、72年間に1万4千余名の卒業生を送り出している。呉鎮守府は1889(明治22)年に開かれ、造船部と兵器製造所が設置された。1903(明治36)年に、この両施設が合体して呉海軍工厰になった。師団とは、平時における旧日本最高の常備兵団として1888(明治21)年5月、従来の鎮台を改変して6個の師団が設けられた。その後、師団が増設され、1921(大正10)年には20師団体制になっている。忠海中学校は1907(明治40)年に海軍兵学校と呉鎮守府を修学旅行で訪れている。
明治後期の修学旅行は、1887(明治20)年代の体操科や博物科などを校外で学ぶ学習活動から、明治政府の近代化政策及び殖産興業政策を学ぶ学習活動へと変わり、学習の形態は、見学が中心となった。これは明治後期の修学旅行の特徴である。本論文では、明治後期に中学生が参観や見学した第5回内国勧業博覧会、鉱山、軍施設を通して、修学旅行の目的とその効果を考察した。その結果、次のことが明らかになった。第一に、第5回内国勧業博覧会への修学旅行は、生徒たちにわが国の近代化を実感させたが、同時に、中学生によっては台湾への蔑視と大国意識を植え付ける結果をもたらした。第二に、鉱山見学は、わが国の殖産興業の様子を学ばせたが、同時に、足尾銅山で働く労働者の悲惨な状態へも関心を向かわせた。第三に、軍関連施設の見学は、進学との直接的な関係はなかった。軍関連施設を訪れた目的は、軍隊生活を知ることと軍事思想の涵養であった。」(千葉県高等学校教育研究会歴史部『房総史学』第56号・菅澤康雄「明治後期の中学校における修学旅行-教育の目的と効果との乖離」)