前号で紹介した館鼻誠先生のレジメの主要な内容は「石塔から読み解く忠海の中世」でした。館鼻先生はこの石塔について次のように解説しています。
[宝篋印塔]基礎、塔身、笠、相輪からなる石造の仏塔。中国の金塗塔を源流とするとされるが、直接的な関係がどの程度あるのか不明な点も多い。宝篋印塔という名称は、経典の「一切如来秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経」に由来するが、実際に経文を納めたわけではない。相輪を除き平面は方形で、基礎と笠に特徴がある。基礎は側面を長方形につくり、輪郭をまいて格狭間を入れ、上部は二段の段形、あるいは蓮の花弁を装飾的に刻んだ反花を略した繰形となる。笠は階段状で、上六段下二段を基本とし、四隅に隅飾と呼ばれる突起を立てる。鎌倉時代中頃から密教系の石塔として登場し、以後、流派を越えて各地で流行した。多くは親や一族を弔う供養塔として建てられたものだが、墓塔も存在する。
竹原市周辺には文保2年(1318年)の銘をもつ大三島町大山祇神社の宝篋印塔(302㎝、重要文化財)、元応元年の銘をもつ三原市米山寺の宝篋印塔(223㎝、重要文化財)、貞和4年(1348年)の銘をもつ尾道市浄土寺の宝篋印塔(越智式292㎝、重要文化財)などすぐれた遺品が多く、大山祇神社と米山寺の宝篋印塔は、いずれもこの地方で活躍した石大工「念心」の作品となる。
このレジメで紹介されている忠海の宝篋印塔は、脇の宝篋印塔(笠幅27.8㎝基礎幅29.5㎝)、薬師堂の宝篋印塔(笠1基礎2)、稲荷神社の宝篋印塔(基礎幅33.0㎝)、勝運寺の宝篋印塔(基礎幅50.9㎝16世紀末)、渡瀬の行蔵寺に残る宝篋印塔(基礎幅41.8㎝14世紀末~15世紀初頭)、渡瀬の清泰寺にあった宝篋印塔の基礎(14世紀末か)、幸崎の善行寺の宝篋印塔の基礎(幅29.2㎝)である。
[五輪塔]方形の基礎、円形の塔身、三角形の笠、半月形の請花、団形の宝珠からなる仏塔。多くは請花と宝珠を一体化して造る。密教の五大思想に基づき、基礎から順に地輪・水輪・火輪・風輪・空輪とよぶこともあるが、この呼称は五輪塔に限って用いられ、他の形式の塔には使用しない。各部の四面に梵字を配するものが本式だが、多くは一面に配し、この場合は梵字のある面が正面となる。また全面を無地とするものも多い。平安時代に木製の板塔婆が造られ、その恒久化をはかるために石造の五輪塔が誕生したものと推察され、在銘最古の石造の五輪塔は、岩手県中尊寺釈尊院にある「仁安4年(1169年)」の五輪塔となる。鎌倉中期になると形の整った重量感のある五輪塔が登場し、時代がくだるほど小型化する。また全体的に横幅に対して高さの比率が増し、笠の反りも強くなる。ただし無銘の五輪塔の年代を特定することはむずかしく、その編年もいまだ確立していない。このほか形柱状の上に五輪塔をつけた五輪卒塔婆や、近世に流行する一石五輪塔がある。竹原市内の五輪塔は、ほとんどが火輪の幅が30㎝以下となるが、忠海の浄居寺には幅46.7㎝の火輪が残り、室町期の五輪塔の遺品として貴重である。
このレジメで紹介されている忠海の五輪塔は、浄居寺に残る五輪塔の火輪(幅46.7㎝高さ30.6㎝)、脇の石塔群の中の五輪塔(空風輪3火輪14水輪7地輪8、火輪の幅は28.1㎝~19.7㎝)、薬師堂の石塔群の中の五輪塔(空風輪8火輪8地輪2)、今御堂の五輪塔(空風輪1火輪3=25.4㎝~21.1㎝)、中町3丁目の民家脇に残る火輪(26.2㎝)、渡瀬の行蔵寺に残る五輪塔の火輪3(幅19.1~21.9㎝)、平原廃清泰寺の五輪塔(空風輪1火輪14水輪33地輪2一石五輪塔1)
そして館鼻先生は、これらの石塔群から見えてくる中世の忠海の空間構成を次のようにまとめている。
①荒神社を境界とする東西の町
「荒神社 宇津の出口 町内東西の堺に御鎮座あり
神殿 祭日 正・五・九月廿八日 」
(『国郡志下しらへ書出帳』文政2年・1819年)
1.地蔵院を軸とする空間
2.高見町の岡の廃寺を軸とする空間
「阿弥陀寺 高見町の岡にあり 浄土宗誓念寺抱」
「観泉寺 高見町の岡 阿弥陀寺の下にあり 右同寺抱」
(『国郡志下しらへ書出帳』文政2年・1819年)
3.海蔵寺・稲荷社を軸とする空間