先日、広島の古本屋で『広島のむかし話』『広島の伝説』という二冊の本を入手した。『広島のむかし話』は1974年(昭和49年)、『広島の伝説』は 1978年(昭和53年)に広島県小学校図書館協議会が編集・発行したもので、広島県内の小学校の先生が収録したむかし話・伝説が掲載されている。この中 に忠海の伝説・むかし話が紹介されているので、再録してみよう。
《大師の鼻たれモモ》
あるとき、弘法大師が壬生の浦(忠海町江の内)の近くを通りかかった。大師はのどがかわいていまにもたおれそうだったが、見わたすかぎり家も小川もない。
しかたなくとぼとぼ歩いていると、大きなモモの木の下で百姓がうまそうにモモをかじっていた。
大師がくれるようにたのんだところ、欲ばりな百姓は「このモモは鼻たれモモといって、とてもかたくて食べられたものじゃない。」と言って、食べかけのモモをはき出してしまった。それ以来、この地方では、かたくてすっぱいモモしかとれなくなったという。
《清水の耳なし地蔵》
治承2年(1178年)の春、平清盛は、高倉天皇とおきさきの建礼門院徳子とともに厳島神社におまいりしました。こんどのおまいりは、娘である徳子の安産を願うためで、船旅は鞆ノ浦から尾道の港までは無事でした。
一夜明けて、さらに西に進もうとしました。ところが、急にあやしい黒雲がひろがり、はげしく風がふいてきたと思う間もなく、船は沖へ沖へと流されはじめま した。水夫たちはめざす方角にもどそうと、力いっぱいこぎました。やっと阿直潟沖を過ぎ、壬生の浦にたどりつくことができました。清盛はなんとなく胸さわ ぎがしてなりません。
「これは、何か悪い知らせにちがいない。生まれてくる赤子にもしものことがあってはいけない。よし、この地に地蔵をまつってお祈りしよう。」こう考えて、 清盛は付近のすべての石工を呼び集めました。その中から地蔵をほることができる石工をえらんで、地蔵をほることを命じました。清盛の気持ちとしては、すぐ にでも地蔵をまつりたいのですが、とうてい潮まちのわずかな日数でできるわけはありません。
二日ほどで風はなぎ、海もしずかになりました。石工にできるだけ早くほりあげるように命じ、清盛一行は厳島に向けて出発しました。
やがて夏も過ぎ、秋もなかばになりました。徳子のおなかも日に日に大きくなりました。 清盛は、もう一度徳子の安産のおいのりを思いたち、厳島におまいりすることにしました。石工に命じた地蔵もできあがっているころにちがいありません。
こんどの旅はおだやかなひより続きで、やがて阿直潟沖を過ぎ、壬生の浦に着きました。清盛はさっそく家来に、地蔵さまを持ってくるように命じました。とこ ろが、地蔵はまだできあがっていませんでした。これから耳をほりあげるところだというのです。清盛は、たいへん腹をたてましたがどうすることもできませ ん。あきらめようとしたとき、京からの使いが馬を走らせてやってきました。徳子が玉のような男の子を産んだというしらせです。清盛はたいそうよろこび、こ れも厳島さまのおかげだと心から喜びました。そして、まだ耳のついていないお地蔵さまをそのままの姿で、清水というところにおまつりしました。
この地蔵は、いつのころか「清水の耳なし地蔵」と呼ばれるようになり、この「耳なし地蔵」にお願いすると、どんなにひどい耳の病気の人も、耳のきこえない 人もなおってしまうと信じられています。それで、いまでも、耳の形をしたぬいぐるみをおそなえしておそなえしておまいりする人がたえません。
(次号につづく)