竹原書院図書館で石岡文四という人が書いた『浦宗勝関係資料控』という本を見つけた。この本の中に賀儀城の記述があるので紹介しよう。
「浦氏の本拠地は浦ノ郷である。浦ノ郷といってもその全域ではあるまい。というのは、浦氏六代の口碑が、この浦ノ郷のごく限られた地域にしか残っていない からである。西から順に挙げてみると、大乗・忠海・久津・渡瀬・能地・幸崎ぐらいまでである。浦氏の本拠地は、どうも久津城にあったらしく、このあたりを 中心に口碑が広がっている。さて、忠海の賀儀城についてであるが、これは兵部丞宗勝の築いたものと考えてよいようである。浦氏は初代氏実の代から水軍を擁 し、これを中心にして小早川氏に仕えて来たのだから、水軍の所謂『船溜り』といったものは後の賀儀城の近くにあったろう。が、この賀儀城の築城は宗勝に因 るものであろう。というのは、この近くの床浦大明神のいわれと関係づけて考えるより仕方がない。文政二年(1819年)にまとめられた『国郡志御用付下調 書出帳』の忠海町の項に次のような記録があるのである。重複があるので一つだけ挙げておく。
昔ハ社領百六十五石アリシト申伝フ、尤モ何レノ代ナルカ年暦モ不知、
御社旧ト古城山ニアリシ処(浦氏ノ御領地ト成リ)宗勝公此処ヘ城郭ヲ築玉フノ時今ノ社地ヘ遷サセ玉フ、御社再造之義ハ大内家ノ式礼ヲ続玉ヒ、浦氏ノ再営アリ。
別の項にその折の棟札の文が掲げられている。曰く
奉再営宮床大明神
護持大檀那小早川平宗勝奉行橘種賀敬白
永禄八乙丑歳十二月十六日 大工 藤原勝久
小工 西村勝吉
この二つを総合すれば次のようになる。
① 忠海の賀儀城は宗勝が築いたものである。(尤も築城の時代は不明)
② 宗勝は後に城山(古城山)といわれる小高い所に築城した。
③ その際、古城山にあった床浦大明神を他に移した。
④ 宮床大明神は永禄八年の再営である。
つまり、賀儀城は永禄八年以前の築城ということになる。
私見によれば、当時は戦国時代の真只中であり、築城は急を要するから、再営後の築城は考えられない。先ず、仮宮を建てて、そこへ大明神を安置する。次に築 城する。築城成ってから宮床大明神を再営する-といった段取りが考えられる。では、築城はいつごろからかということになるが、宮床大明神の再営された時期 から推して、第二次大友合戦中のことと考えるのが妥当な線で、私は永禄三年ごろから徐々に進められたものと推定している。そして、完成は永禄六年の末ご ろ、それから、宮床大明神の再営にかかったのではなかろうか。
だが、之はあくまでも推定であるからして根拠は何もないが、永禄十一年四月中旬には、四国の河野氏救援軍の一部をこの忠海から進発させていることは事実で ある。築城は宮床大明神再営の以前か以後かはさて措き、築城はその必要性の尤も大なる時になされるものであることを思考の根底に据えれば、私の机上の推定 もあながち的を外れるものはないと信じている。(石岡文四『浦宗勝関係資料控』P211~213)