1990年に忠海郷土史研究会が発行した『忠海歴史年表』から浦宗勝の時代の記述を拾ってみよう。
1527(大永7)年
浦宗勝、忠海に生まれる(『忠海案内』)
1558(永禄元)年
浦宗勝の母、地蔵院を改造す(『地蔵院文書』)
浦宗勝の母没す(『地蔵院文書』)
1559(永禄2)年
浦宗勝の父没す(『地蔵院文書』)
1560(永禄3)年
忠海の住人、田中孫右衛門尉勝定、厳島神社回
廊修繕に一間分の寄付をなす(『山口県文書館』)
1565(永禄8)年
浦宗勝築城のため現在の城山の地にあった床浦神社を現在地に移す(『忠海案内』)
浦宗勝、賀儀城を築く(『忠海案内』)
忠海の住人、日向屋新左衛門、厳島神社回廊修繕に一間分の寄付をなす(『山口県文書館』)
1567(永禄10)年
忠海の住人、竹村源右衛門、厳島神社回廊修繕に一間分の寄付をなす(『山口県文書館』)
1570(元亀元)年
習元月山勝運寺、曹洞宗、領主浦宗勝建立、本尊釈迦如来(『忠海案内』)
1571(元亀2)年
青竜山浄居寺、禅宗、予州大三島盛村西光寺2世妙中和尚開基、本尊華厳釈迦如来(『忠海案内』)
1572(元亀3)年
忠海の住人、田中孫右衛門尉、厳島神社回廊修繕に一間分の寄付をなす(『山口県文書館』)
1577(天正5)年
忠海の住人、羽白屋三郎左衛門尉、厳島神社回廊修繕に一間分の寄付をなす(『山口県文書館』)
1583(天正11)年
忠海の住人、中村三原右衛門、厳島神社回廊修繕に一間分の寄付をなす(『山口県文書館』)
天正年間
願海山誓念寺、浄土宗、誓念和尚開基、本尊三尊阿弥陀仏(『忠海案内』)
南徳山明泉寺、真宗、往時は真言宗であったが、 中沙門玄知、真宗に改宗す、本尊阿弥陀如来(『忠海案内』)
1592(天正20)年
西笑承兌(1548~1607)、清泰寺に泊まる、西笑承兌は相国寺の僧で太閤秀吉の祐筆として外交文書を作り、詩才も高く評価されていたという。太閤秀 吉の命により名護屋に赴く途次清泰寺に泊まる、清泰寺は、現在は三原市に編入されている修法山善行寺の末寺であったが、明治初年廃寺となり、畑とかわって いるが、善行寺の南向いの山にその跡がある(『鹿苑日録』)
浦宗勝、文禄役陣中にて病を得、当時小早川家の所領筑前立花山麓にて療養中没す。行年66歳。
この年表でも明らかなように、忠海の寺社はそのほとんどが、浦宗勝の時代に今日の原型をなしていることがわかる。また当時の忠海の住人がたびたび厳島神社の回廊修繕に一間分の寄付をしていたことがわかる。