竹原の古本屋で阪田寛夫の芥川賞受賞作『土の器』という本を手に入れた。その中に祖父桃雨のことを描いた小説「桃雨」が掲載されている。たびたび忠海のことが登場するので紹介しよう。
「ところで、私がこの世で最初に出くわした本式の俳句は、『浦の名の花やほまれの古城跡』である。作者は阪田桃雨、私の祖父だ。広島県豊田郡忠海町出身 の祖父が、1936年(昭和11年)故郷の城跡の山上に建てた句碑の句で、『浦』は昔その城にいた殿様の姓である。いったいこの世の句碑というものがどう いう手続きをふんで建てられているのかは知らないが、祖父の場合は明らかに自分で作って、それを町に『寄贈』したのである。もっと正確に言うと、私の父や その兄弟たちが祖父の80歳の誕生日を祝う為に金と力を出し合って、こんな形で親孝行をしたのだ。
式典は同年1月元日朝、燧灘からの強風をまともに受ける城山の頂上で執行された。小学生の私も参列していた。寒さに鼻を赤くした羽白という温厚な町長の顔 を今でも私は覚えている。その町長を皮切りに、町会議長、在郷軍人分会長、校長、郵便局長らが次々に祝辞を述べ、浦伯爵家からの祝電が披露された。式辞の 長い長い巻紙がつめたい風に吹きあふられ、そこに書かれた言葉によれば、桃雨翁はこの町の誇りであって、郷関を出でて大阪で印刷インキ製造業を始めて成功 し、いまや5人の息子たちに家業をまかせて悠々自適の境地にあるが、蕉風俳句の本道を歩んで名は夙に斯道に高く、このたび郷党の旧主浦宗勝公を顕彰する名 句をものされたので我らは請うて句碑に刻み、永久に翁の俳業をたたえると共に、郷里の子弟の情操教育の資にしたい、というのであった。
もちろん石碑代工事代のみならず、あるいは式典費やそのあと町一番の旅館で催された大宴会の費用も、父たちが分担したのかも知れぬ。」(阪田寛夫「桃雨」 P55~56文芸春秋『土の器』所収) 「日清戦争が起こるまで祖父は豊田郡の郡役所の書記をしていた。その頃住んでいたのは阪田小路と呼ばれる海岸通りに近い横丁のしもた屋で、格子窓のつい たありふれた二階家であった。その家を訪ねてありし日を偲ぶことも予定の行事に組みこまれており、私たち子供は物見高い人々に見物されながら、別に何の感 慨もなくそそくさと立ち去ったのである。(中略)私が忠海を訪ねたあの句碑の除幕式は、小学五年生の時であった。それから三十何年も経った今、ずっと年長 の従姉から私は次のような話を聞かされた。当時彼女が忠海から戻って服部にある隠居所へ遊びに行ったところ、祖母からひとこと、『格子があったか』と訪ね られたそうだ。一家がもと住んでいた阪田小路の家のあの格子窓のことである。『あったよ』と答えると『そうやろう』と目をつぶっていたが、高血圧のまわら ぬ舌でやがてぼつぼつ話しだした。
三人目の男の子が生まれてすっかりくたびれていた時、それは初夏の昼さがりだったが、『障子あけて、格子ん中から表を見ながら涼みおったら、わしが見おる のを知らんと、じいさんが芸者つれて歩いておりんさった』従姉が返答しかねていたら、『男前じゃったけんのう』と、祖母はしばらく目を閉じた。」(前掲書 P58~63)
この文章を読むと、燧灘から吹く寒風の中での城山での句碑除幕式、羽白町長の赤い鼻、忠海一番の旅館での大宴会、阪田小路の格子窓など昭和11年当時の忠海が彷彿と蘇る感がする。 なお、この小説には阪田桃雨の句が多数出てくるのでここに紹介しよう。
若竹のそよきたのしや今日の月
ふたつ宛蝶飛ぶ処々かな
ほととぎす夜は雨とのみ思ひしに
月は澄めど何処もさびしき今宵哉
ひんやりと秋に移りし夜風哉
足る事を知れば涼しき草家哉
奥書院小萩も咲て朝茶の湯
頼もしや君涅槃会の往生日