最近、岩波書店から『歴史のなかの新選組』という本が刊行された。著者は東京大学史料編纂所教授を経て国立歴史民俗博物館館長の宮地正人という人である。その本のなかに、池田徳太郎が高く評価されているので、ここに紹介する。
近世的な封建的軍役体制-それは俸禄制と表裏一体の構造をもつ-が、ペリー来航以降は機能しなくなる。それは一方では、軍事大権の発動者を征夷大将軍とす るピラミッド形で階層的なシステムが、全く柔軟性を欠如するようになってきたという理由とともに、他方では、本来的には戦士集団として編成されていた武士 層そのものの、戦士としての力量の大幅な低落がその要因となる。
(中略)
このような、武士層の戦士としての力量の目をおおうばかりの低下と、そのサムライとしての建前とのギャップを埋めるかのように、豪農層や中農上層部から、剣客が続々と輩出するという事態が幕末期に進行する。
(中略)
右に見た在地草莽層の組織化という課題も、奉勅攘夷をかかげ上洛する将軍家茂の先供徴募事業には明白に意識されていた。石坂周造とともに「尽忠報国」の士徴募に奔走する池田徳太郎は、この課題の重要性に関し、以下のような意見書を提出している。
義民、其赤心報国の志、兼て十分貯居候へ共、右其地頭領主より被為圧伏、如何にも其志の御上に貫通仕候様無之段、鬱々残念罷在候処、今般御募浪人共の内へ 御差加へ、一隊の遊軍にも御備立、御供被仰付候はば、右義民共においても非常の御時非常の栄命を蒙り、如何計り歟感激仕り、実に身命無所惜候事 名不正れば其勢不震、今般御攘夷の御名文を以て其義気を振起仕候事、好機会に御座候、右の内、郷士体の者共、其村里において日頃恩意を以て結び置候強壮 の義民も有之候へば、此の魁首御募り被成候上は、右強壮の義民共も、後えに進退可仕候事 右の義民共、祖先以来産業相立、相応富殖の者も御座候得ば、兵馬等の諸備も自分入用にて相備可申、格別御手当等に不及候事、御帰鑾の上、右義民共の今般 の儀、奇特の御褒賞として相応の格式も被仰付候上、元々え御帰し被成候共、画錦の栄光相耀き感悦仕、以後非常の御時に至り、闇夜馳せ集り可申候事 義気を鼓舞仕候儀は、素より上に根底仕候とは乍申、或は下より醸起し候手段も権道に候、上下の義気相合して闔国の兵勢初て堅実仕候、既に水府烈公様の義 民を郷士と御仕立、水府闔国の義気、実に無敵天下候事、目前の実験に候
ここに見るように、池田は、関東における草莽層の実態を非常によく押さえている。第一に、彼らは、その経済力にもかかわらず、身分的な差別によって鬱屈し た感情をもっていること、第二に、国事を憂い、大義名文をもって鼓吹すれば、必ず呼応してくること、第三に、このような事態になれば、草莽層の周辺に従 属・結集している「義民」も同時に糾合することが可能となること、第四に、彼らは有産者であるため、自装自弁が可能となること、などをしっかりと理解して いるのであった。
そして、この在地の豪農、また一部の豪商層もふくめた階層は、浪士組・新選組のみならず、幕末から明治維新にかけて、維新変革のもっとも基底的なところにおいて、その歴史的前進運動を担っていくのである。
(宮地正人『歴史のなかの新選組』P28~31)