竹原市議会議長に就任してはじめて2011年5月4日に行われた「頼山陽顕彰神事」で挨拶をする機会を得たので、頼家と忠海についておおよそ次のような挨拶をしました。
「昨年12月に議長に就任した脇本でございます。私は忠海町の出身のため、この神事に出席するのははじめてですが、市議会を代表して一言ご挨拶を申し上げます。
私が住む忠海は、三頼と言われる頼春水、頼春風、頼杏坪と春水の息子頼山陽とは深い縁がございます。
先日鳴海風という作家から『星空に魅せられた男間重富』という著書をいただきました。間重富は大阪で質屋を営む町人ですが、江戸時代に世界一正確な天文か らくり時計をつくった人です。その彼に思想的な影響や学問のあり方を教えたのが平賀晋民だということでした。忠海西小学校の体育館の前に平賀晋民先生顕彰 碑が立てられていますが、この碑に彫られている「平賀先生」の文字は頼春水の書からとったものであります。頼春水の父又十郎は大変教育熱心な人で自らも和 歌をたしなみ亨翁と号し、長男春水には先ず地元の医師、神官、僧侶を師として、学問の手ほどきを受けさせました。春水は長男であっても家業を継ぐことは考 えず、ひたすら学問に精を出し、近隣で「神童」と呼ばれるほどになりました。14歳の頃には出張教授に来る平賀晋民に儒学を習うために三原へ通ったといい ます。弟たちも兄にならい学問に励みました。7歳下の春風、10歳下の杏坪はともに学者として立ち、後に「三頼」と称されるほどになりました。
頼春水はたびたび忠海を訪れていますが、頼春水の『游忠海記(ただのうみにあそぶのき)』には、宝暦14年(1764年)に第11回目の朝鮮通信使が忠海 の誓念寺に泊まった時に、頼三兄弟は唐崎常陸介に誘われて誓念寺を訪れ詩や書を見せ、高い評価を得たことが記されています。なかでも当時9歳だった杏坪は 正使の前ですばらしい書を書き正使を驚かせています。そのことは正使趙済谷の『海嵯日記』に書かれています。
そして頼山陽は父春水や平田玉蘊らと共に文化4年(1807年に黒滝山や床の浦を訪れ、『竹原舟遊記』を著しそのなかに「山紫水白、継ぐに蒼然の色を以てす」という言葉が見られ、それがのちの山紫水明という言葉の原点であると言われています。
このように頼山陽と忠海には深い縁がございます。そうした感慨を抱きながら本日の神事に出席させていただきました。今後ともご指導ご鞭撻をよろしくお願い 申し上げます。最後に、竹原頼山陽顕彰会のますますのご発展と、本日ご列席の皆様方のご健勝とご多幸をご祈念申し上げまして私のご挨拶とさせていただきま す。」
この原稿を書くにあたっては池田明子著『山紫水明-頼山陽の詩郷』
(ウォーターフロント開発協会発行)を参考にさせていただきました。