平山郁夫が日本画を志す契機となったのが大おじ清水南山のすすめによるものです。
竹原書院図書館で郷土と南山先生を語る会・三原市立幸崎小学校編『ものがたり清水南山』という本を見つけました。その本の中に平山郁夫少年が日本美術学校を受けることになった経緯が書かれているので紹介しましょう。
「平山郁夫少年は、広島市の旧制修道中学校に通っていました。昭和20年8月6日、勤労奉仕の作業中に原子爆弾の投下に遭遇、被爆しました。街は一瞬のうちに壊滅炎上し、少年は体力も気力も絶え絶えで、翌日に瀬戸田へたどりつきました。その後も、蚊の刺した後が化膿したり、突然高熱が出て一週間も意識不明になったりしました。一時は、医者も匙を投げる程でしたが、両親は祈る気持ちで新鮮な魚を食べさせました。そのかいあってか病人の体力も徐々に持ち直し、幸崎町の伯父さんの家から旧制忠海中学校へ転校通学できるほどに回復しました。平山少年が久しぶりに会った大伯父さんは相変わらず質素な暮らしぶりで、小さい畑を自分で耕して野菜などをまかなっていました。孤高を守る純粋な芸術家という印象が原爆のショックでふぬけのようになっていた少年の目にはとても新鮮だったと、これは平山画伯の後年の回想談にあります。
昭和21年、平山郁夫少年は中学4年生になっていました。旧制中学では、4年終了で上級学校の受験資格があったので、進路の選択は切実な問題でした。少年は長兄にならって、旧制高校へ入るべく勉強をしていたのです。ところが、秋になって、南山は突然、『郁夫、おまえ、美術学校の日本画を受けろ。』と言いました。『ぼくは美術の受験勉強なんて何も準備してないのに直前になってどうしてそんなことを……。』と訊くと、南山は答えました。『自分は長い間美術学校の教授をやってきたが、草創期、つまり岡倉天心時代の美術生徒は、絵だけでなく学科(学問)もよく勉強していた。ところが、だんだん専門化するにつれ、絵はうまいが勉強が嫌いだという生徒が増えた。勉強はできないが、絵が上手なので美術学校へきた、という人間を入学させ、教えてみて分かったことがあるのだ。』南山は言葉を続けます。『彼らは確かに技術はある。しかし、それだけでは作家にはなれないんだよ。いいか。技術だけで教養が伴わなければ、芸術家や作家にはなれない。自分で考えるだけの教養がなければ、ものは生み出せないからだ。『
受験の結果は合格でした。昭和22年3月下旬、上京の挨拶のため、瀬戸田から改めて幸崎町の南山宅を訪れました。床の間と仏壇のある座敷へ通されました。が、ここは、少年が勉強したり寝起きに使わせてもらったりした客間で、ふすま4枚に南山の手になる大虎が描いてありました。虎の眼光鋭く、『清水の虎がくるよ。』と言えば、近所では泣く子も黙ったと言います。ついでに記せば、この虎のふすま絵は、今南山資料館が所蔵し、随時陳列されています。
入学に当たって、南山は次のような心掛け5項目を諭しました。
① 在学中は絵でアルバイト(金稼ぎ)をしないこと。どうしても金が要る時は、専門の 絵以外ですること。例えば、肉体労働のような。
② 日本の古典を学ぶこと。日本は戦争に負けたけれど、文化そのものが敗れ、否定され たのではない。長い日本の歴史の文化は一朝一夕には倒れない。
③ 自然から学ぶこと。そのために絶えず写生を忘れることなく基礎勉強のために写生を すること。
④ これからは、外国からいろいろな芸術文化が紹介されるだろう。絵画、演劇、音楽な どの各分野で、一流のものはお金を惜しむことなく見学することである。
⑤ これは、絵の材料についてもいえる。初心の時に、絵、絵の具、筆などは一級の素材 で学ぶこと。良い質の材料を気持ちや感性に刻むことである。
72歳の南山は、16歳の少年に、まるで免許皆伝を授けるように言いました。終わりに、『もしこの中の一項目でもできない時は、画家になることをやめて、田舎へ帰ってきなさい。』と、しっかりと言い渡しました。」(郷土と南山先生を語る会・三原市立幸崎小学校編集『ものがたり清水南山(下)』P65~68)