忠海高校野球部からプロ野球に入団した選手が3名いるのをご存知でしょうか。その一人は、この『忠海再発見』でも紹介した夏の広島県大会の優勝投手・白崎泰夫である。
この白崎泰夫投手について、最近刊行された後藤正治著『スカウト』という書物のなかで紹介されているので、ここに引用してみよう。この本は、広島カープの 黄金時代に貢献し、のち大洋、オリックス、日本ハムで40年以上のキャリアを重ねる現役スカウト・木庭教を描いたルポルタージュである。この本に白崎泰夫 が登場するのは、まだスカウトという言葉はあったが、市民権を得ていなかった頃に南海ホークスの鶴岡一人監督の私設スカウトという役割を果たした上原清二 について書かれた場面である。
「親分という異名をもつ鶴岡一人は広島県人である。1916(大正5)年、呉に生まれ、広島商業から法政大学に進み、卒業後南海ホークスに入団、三塁手と なる。戦後すぐ兼任監督となり、以降23年にわたって監督業をつとめ名監督の名をほしいままにした。上原は鶴岡の広島商時代の同級生であり、親友だった。 そのことが上原の人生を決めた。召集、任地に向かう鶴岡を広島駅のプラットホームで見送ったのも上原だった。交遊は60年を超え、いまもゴルフ場のグリー ンで『おい、ウエ』『なんじゃ、ツル』と呼び合う関係である。‥‥‥‥上原の実家は呉服屋で、一人息子の彼が家業を引き継いだのであるが、人生の目的を 『鶴岡を男にする』ということに費やしていく。戦後、鶴岡が南海の監督になると、いい素材を求め、家業をほっぽり出して中国地方を歩いていた。
『だれに頼まれたわけでもないのに道楽もええとこじゃな』太田川の側、市内の夜景を一望にできる高層マンションの一室で、上原は昔話を語ってくれた。上原もまた、遠い日、勤労奉仕に出ていた出先、中区千田町であの日の閃光を浴びた一人である。左腕に火傷の跡が長く残った。
上原が獲得した第一号選手は、瀬戸内に面した竹原市にある忠海高校の投手、白崎泰夫である。1952(昭和27)年夏、県下の野球界では無名校に近い忠海 高校が、エースの白崎の活躍で県大会に優勝した。大会が終わってすぐ、上原は呉線に乗り、竹原に向かった。たまたま車両で、他球団の二人の『スカウト』と 一緒になり、呉越同舟、世間話をしながら竹原駅まで同行した。駅の改札を通ると、上原は走った。タクシーにはやく乗るためである。すぐ後ろか
ら別のタクシーが追ってきた。
タクシーが自宅につくと、上原は裏口から家に飛び込んだ。玄関から入る入るよりはやかったからである。タッチの差で、上原は白崎の家人といちはやく面談し た。話を終え、家を出ると、道路に近所の人が集まっている。田舎のこと、タクシーが次から次にやってくれば目立つ。人々の前を軽く頭を下げながら横切った 折、耳にした言葉を上原はいまも覚えている。『人買いが来ておるということじゃ』南海に入団した白崎は六年間在籍し、通算10勝(10敗)をあげてい る。」(後藤正治『スカウト』P41~42)
忠海高校からプロ野球に入団した選手の残る二人は、秋光新二と西野忠臣で、秋光は阪神タイガースから新日鉄室蘭に移り活躍(当時はプロからノンプロに移る ことも可能だった)、西野は読売ジャイアンツに入団した。西野については、大道文著『新プロ野球人国記④』に「忠海では、巨人のユニフォ-ムを脱いで競輪 選手になって大成功した西野忠臣」と紹介されている。