加島正人がセール商会と直接取引をするようになったため、中島董一郎はみかん缶詰工場を新たに設立しようと考えました。原料になる柑橘類の生産地に近接する最適な場所を探し、瀬戸内海に面した豊田郡忠海町を選びました。そして、昭和7(1932)年12月、中島商店の全額出資で設立されたのが株式会社旗道園です。工場の責任者として選ばれたのは、廿日出要之進でした。
中島董一郎【明治16(1883)~昭和48(1973)年】は愛知県幡豆郡今川村(現西尾市)に生まれ、明治40(1907)年、東京の農商務省水産講習所を卒業しました。卒業後は缶詰業に携わっていましたが、大正元(1912)年から農商務省海外実業練習生として英米へ渡り、缶詰等の食品を研究しました。この時、オレンジマーマレードとマヨネーズに出会い、日本での製品化を志しています。大正5(1916)年には帰国し、同7(1918)年に東京で中島商店を創立し、缶詰販売等を開始します。大正8(1919)年には食品工業会社(現キューピー株式会社)を創業し、同14(1925)年に同社で製造した「キューピーマヨネーズ」の瓶詰の販売を中島商店で始めています。中島は加島正人のみかん缶詰の輸出にも見られるように、品質の良い食品の販売や輸出入で事業を順調に拡大しました。昭和13(1938)年には商号を「株式会社中島董商店」とし、戦後も引き続き日本の食文化を支えていくことになります。
廿日出要之進【明治31(1898)~昭和48(1973)年】は豊田郡大長村に生まれ、広島県立忠海中学校を卒業し、その後農商務省水産講習所で学び、大正12(1923)年に中島商店に入社しました。加島正人のみかん缶詰も廿日出がいなければ、中島商店とは結びつかなかったと考えられます。中島が旗道園の設立に際して、缶詰製造技術を学んでおり、地元のことも熟知している廿日出に運営をまかしたのは必然だったと言えるでしょう。
旗道園の名の由来については、中島が英国に実業練習生として派遣された時に見た大学対抗のボートレースでプレーと共に応援校旗の青旗が印象に残り、その青旗をブランド名とし、その旗の下で園芸に立脚する会社であることを示すとされています。旗道園は、当初はみかん缶詰の製造から始め、中島の志したマーマレードも創業時の製品となっています。製品については、品質にこだわり、優良なものだけを「アヲハタ」の商標をつけて販売しました。昭和12(1937)年に開かれた市販缶詰開缶研究会ではアヲハタの缶詰は広島県で唯一「みかん」「マーマレード」「苺ジャム」の三部門で推奨品に入っています。
戦後、廿日出は、旧旗道園があった忠海の地に青旗缶詰株式会社を設立します。戦後の混乱の中で中島も支援の手が回せなかったため、廿日出は地元広島で出資者を募り、会社を立ち上げました。物資不足の中、それでも貴重な砂糖を保管して材料が揃うまで待ち、旗道園時代の基本配合でオレンジマーマレードを製造したといいます。青旗缶詰は、戦後も中島董商店とのグループ関係を続け、みかん缶詰の製造を中心に成長していきます。現在ではアヲハタ株式会社と社名を変更し、瓶詰ジャムを主力製品として活動しています。
廿日出要之進は「缶詰は中身が見えないからこそ、これを製造する人は正直でなければならない」と語り、品質第一主義を信条にしていました。また、「権謀をきらう」との定評もあり、その業績からも堅実な人柄が窺えます。
(広島市郷土資料館『廣島缶詰物語』P64~65)