平山郁夫は広島の修道中学校3年生のとき、勤労動員先の広島陸軍兵器補給廠で作業中、原子爆弾に被爆、その後忠海中学校に転校し、勝運寺に下宿して通学していました。
それが平山郁夫の画業にどのような影響を与えたかについて、『群青の海へ わが青春譜』という著書のなかでつぎのように書いています。
「私自身、お寺に思い出があります。中学のころのことですが、終戦後、広島から竹原市の忠海中学校に転校した私は、そこの禅寺に下宿したことがありました。 そのお寺には余分の部屋がなかったので、私は本堂の片隅を襖で囲ってもらって起居していました。
そのころはまだ、東京の美術学校に行こうとは思っていませんでしたが、この本堂で絵を書いたり、勉強したりしていたのです。 本堂では、方丈さんたちが坐禅を組むのが日課になっていましたから、私もよくお線香を一本いただいて、見よう見まねで坐禅を組みました。ただのまねごとで すから、なぜ坐禅を組むのか、なぜお線香をともすのか、さっぱりわかりませんでしたが、ただ、じーっとすわっていると不思議な静けさが訪れ、仏の世界に包 みこまれるような気がして、一時期ずいぶん一生懸命坐禅をしたものです。
東京へ出て、美術学校の学生時代のこと、夏休みに帰省すると、中学生の時下宿した禅寺で『接心会』という集まりがありました。大学の先生やお医者さんたち の会だったのですが、この会に若い私も入れてもらい、難しい話を聴いたり、一週間ほど頑張って坐禅を組んだりしたことを思い出します。
こうした体験の中から、いつしか、私の心の隅に、人知を超えた“永遠なるもの”への憧れが、漠然とではありますが、宿りはじめたように思います。 原爆のまがまがしい惨状を目のあたりに見、私自身も後遺症によって生死の境をさまよった体験があるために、私の心は自然に何か永遠なるものを求めていたよ うに思います。
“永遠なるもの”というのが、適切な表現かどうかわかりません。 そのことを具体的に説明しろといわれてもできないのですが、ただ、人間の一生に思いを馳せて、その一瞬のまたたきにも似た短い人生の中で、一人一人の人間 が営々と積み重ねていくもの、それがいつしか文明とか文化とか、つまり時間や空間を超えた大きな流れを形づくっていくのだろうと思います。」
(平山郁夫著『群青の海へ わが青春譜』中央公論社刊)