ところで、この本の中で、池田徳太郎のその後についても、とりわけ広島藩の軍事組織編成に尽力したことについての記述があるので紹介しよう。
池田徳太郎は浪士組とともに上京するが、清河八郎と意見があわず、かといって在京グループに加担もせず、自分の出身藩の広島に戻り、船越衛らの広島藩の尊 攘派に加わって活動することになる。もっとも彼は医家の出で、安政期から関東で学塾を開いて生活し、藩に召し抱えられるのは1864(元治元)年8月のこ とである。
池田が広島に帰っておこなおうとしたことは、広島藩内の草莽層の軍事編成であった。その意味では、浪士組取立ての際の草莽層の組織化の重要性という課題を 一貫してひきついでいるのである。対外危機が迫る中で、最も必要なことは、対決の場を求めて攘夷の先鋒になることでも、また在京して朝幕融和と国是決定の ため尽力することでもなく、日本国民の最大多数を占める農民・商人のうちの富裕層、すなわち豪農商の軍事化であり国家の基底層としての包摂だ、とするので ある。池田は、この1863(文久2)年4月頃、「京摂海防兵組織計画」として、次のような構想を示している。
1、勤番より土着の方然るべし
2、沿海豪農富商の中、頗る有志の者も有之由、先右の者探索、能々 御打合可然
3、軍艦十艘を用意し、沿海漁人の内強壮の者を選び修復せしむべし
4、大坂豪富の者より献納せしめ、軍艦、農兵講武所の諸費とすべし
5、在々へ講武所相営み、農兵の内壮強の輩相択び、農暇に武を講じ 銃隊調練を致さすべし
6、古は挙て海内皆兵候故、日本の武勇、実に万国に卓越仕り、真の 武国の名にそむかざりし候事、愈海防厳備御立被成候はば、非常破 格の大雄決を以て、右農兵復古無之ては、非常の節、東西奔命に疲 れ可申候事
非常に組織立った構想である。池田は、このような経験を土台に、戌辰戦争の際には広島藩農兵組織の神機隊を率いて上京、その後は、軍務官権判事、若松県権 知事、新治県権令、島根県権令、岩手県参事の職を歴任、1874(明治7)年2月には青森県権令となり、同年9月12日、在職のまま病没する。浪士組関係 者のうち、最も視野が広く、事の本質を深くとらえていたのは、池田徳太郎であったかも知れないのである。
(宮地正人『歴史のなかの新選組』P109~111)