菅脩二郎さんから、竹原書院図書館に灌園坊の『日記』が所蔵されているが、その中に嘉永7年(1854年)11月の大地震の記述がある。現在、東南海地震 が話題になっているときでもあり、ぜひ『忠海再発見』で紹介したらどうかという電話をいただいた。早速竹原書院図書館を訪ね、嘉永7年の灌園坊の『日記』 をコピーさせていただき、あわせて宮負定雄著『安政東海大地震見聞録・地震道中記』(厳松堂出版)、寒川旭著『日本を知る地震』(大巧社)を借りて帰っ た。これらの史料をもとに嘉永7年の灌園坊の日記を紹介しよう。
日本福祉大学教授の水谷伸治郎氏は『地震道中記』の序で安政の大地震についてつぎのように述べている。「1854年12月23日、浜松南方約80キロ メートルの海底を震央とするマグニチュード8・4の地震が起こり、津波を伴って、東海道一帯に大きな被害をもたらした。世に言う安政地震である。旧暦で は、この地震は嘉永7年11月4日に起こっている。その直後、もう一つの大地震が起こり、東海・畿内・南海・山陽一帯に再び大きな被害をもたらした。わず か32時間後のことであった。これらに先立って、夏には伊賀地震があり、信濃の善光寺地震の悲惨な災害もまだ記憶のうちにあった。実際、その頃、日本列島 の各地では、引きも切らず小さな地震が頻発していたらしい。一方、水戸学を中心とした一派が台頭を始め、民心は脅えていたに違いない。この旧暦の11月に 起こった2つの大地震を機に元号が改められた。11月27日に嘉永7年は安政元年となる。以降、嘉永・安政年間に起こった大きな地震はまとめて、安政地震 と呼ばれるようになった。しかし、地震記録の上からはこれらを区別し、安政伊賀地震、安政東海地震、安政南海地震、安政江戸地震と記される。わが国の地震 記録の中でもこれら一連の地震は、まとまって比較的短い期間に起こっていること、直下型地震である善光寺地震・伊賀地震に続いてプレート境界型地震の安政 東海・南海地震の両地震が起こり、さらに続いて再び直下型の江戸地震が起こっていること、また、プレート境界型の2つの巨大地震がほとんど同時に連続して 起こっていることなど、すべて日本列島をとりまく地震発生の時空分布の解析には重要な出来事であり、多くの関心が寄せられてきている。」(『地震道中記』 P3~4)
灌園坊は嘉永7年7月から10月、家元の御朱印改めのため、御坊の名代として江戸表、寺社奉行所に赴き「御朱印改めの御用」を無事相勤め、帰京後、御朱 印目録等を家元に引き渡しする。そして10月には家元の御坊より坊流の最高名誉である「家元三房職」を命ぜられる、とある。(菅脩二郎「灌園房の生涯」) この嘉永7年の『日記』の表紙に「嘉永7年11月5日大地震津波ニテ東海道筋大坂始メ中国九州大変ナリ」と記されており、この年最大の事件であったこと を物語っている。そこで嘉永7年11月5日前後の灌園坊の日記から、忠海に住んでいた灌園坊の地震に対する感想を転載してみよう。11月2日の記述には 「明石ヨリ室マデ一三里」とあり、丁度この時、灌園坊は京都からの帰路にあった。
四日 風悪シクナミ高く舩ツカヒ六ケ敷ク○四ツ時大地震アリ
五日 相カワラス風悪敷候テ出舩出来不申皆々タヒクツス○昼食後ヨリ教覺寺並京都五条新町舩本屋善助殿三人同道ニテ町中見物ニ参リ直ニカヘル○夕六ツ時大地震町中皆々悉出サワクナリ又々六ツスキ夜四ツ時大地震娘子供舩ニ参リ同夜舩ニテ一宿シ六日明ケカタニカヘル
六日(室ヨリ大タブ迄五リ大タフヨリ牛窓迄五リ牛窓ヨリ日比迄七リ日比ヨリ下ツヒ三里下ツヒ迄ヨリ白石迄七リ白石ヨリ鞆津迄三リトモツヨリ尾道迄五リ)
晴天ニテ波風ヲタヤカニ相成七ツ時出舩また地嵐ニテ暮六ツ時播州赤穂沖迄下ルナリ夜中嵐ニテ備前ノ國日比ノ沖ニテ白明ナリ
七日 順風ニテ五ツ時同國下ツヒ迄下ル四ツ時水嶋ナタニテ大地震舩中ニテ皆々大ニタマケ舩大ニユレリナミタチ海シハラクナルナリ○七ツ時鞆津ヘ着直ニ出舩 暮々ヨリ時雨ス夜九ツ前尾道ヘ着ス町中大震ニテ皆々舩ニ乗組地舩ハ元ヨリ他國他村舩ニテモ頼参リ候得ハ一人ニテモ乗ント申ス事出来不申其外野山ニ小屋掛ケ 致シ家内野山舩中ノスマヒニテ大ニソウトヲノ事ナリ同夜舩ニ又々一宿ス
八日 鋳物師屋喜兵衛殿方ヘ参リ候処主人一人内ニ居一家内タンカノホシバニ小屋掛ニ逗留ニテ留至ナリ御所屋並海老屋入来ニテ何々噺シス四ツ時ヨリコンヤ内 へ見舞ニ参ルナリ○大竹亀蔵舩逗留致シ居候テ乗舩シ御馳走イタシシハラク噺シテカヘル○内海舩参リ居候テ便舩頼夜五ツ出帆四ツ半時床ノ浦着ス恙六方ヘ荷物 頼ミテカヘル○寺内中右大地震ニ付住屋干場ニ小家掛致シ参リ居留至ナリ皆々カヘリ寺内ハ鍛冶屋□四郎福田文平覺了御堂番前ノカ蔵ナリ
九日 早朝ヨリ町宮床ヨリ段々入来○家内三人小家掛ケニ参ルナリ○夜ナヨナ小地震五ツ
十日 早朝ヨリ喜ヒ人段々入来○同地震澤山ナリ○垣井氏ヨリ見舞トシテ赤飯一重到来ヨロシク便リニ付巻物折紙席札並御家内ノ分送るナリ
十一日 早朝ヨリ喜ヒ人段々入来○川口屋周蔵殿サトヤ啓四郎殿松江義天師入来色々噺シテ進物モノ手傳モロウナリ○夜分十二日居講ニ付當番ノ者両人参リ宿ルナリ
十二日 早朝進物ソレソレ贈ルナリ○義天上人早々引取レリ○岡本ヨリ地震見舞餅一重到来
十三日 早朝本町高橋江覺了シキスナリ○同所高見屋弥三右衛門報恩講勧ルナリ○町中江ソレソレ見舞ニ参ルナリ
十四日 早朝ヨリ町中ヘソレソレ見舞ニ参ルナリ○唯舎房ヨリ書状到来
十五日 早朝ヨリ小泉岡本垣井氏江見舞ニ参ルナリ沼田社中ヘ進物者仕度ス
十六日 早朝ヨリ御堂タテカヘソウシ致ス事ナリ○客僧唯念病気ニ付名代得導上人入来ノ事○大ミソレ雪ナリ
十七日 胡屋泰助殿かりや徳右衛門殿両人入来報恩講佛花立調ナリ○義天上人ヨリ風呂敷贈リカヘスナリ○夜分得導師並覺了文平四五人ニテ御花足竃スヘル
十八日 報恩講案内上現屋庄助米屋唯七参ルナリ