『広島県史 近代1』に「ええじゃないか」の記述があるので紹介しよう。
「大政奉還から王政復古、鳥羽・伏見の戦い、戊辰出兵に歴史の激動期に、民衆は歴史の方向をみきわめることもできぬままに生活していた。ちょうどこのとき、慶応3年末より翌慶応4年はじめにかけて『ええじゃないか』の狂乱がおこり、旋風のように民衆をこの狂乱の渦に巻き込んでいった。従来『ええじゃないか』の起こった地域は『東海地方にはじまり、西は伊勢、京都、大阪、兵庫、淡路、讃岐あたりまで、東は信州、江戸におよんだ』(藤谷俊雄『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』岩波新書)といわれているが、広島県においても山陽道沿の各地で起こっているのである。広島県内で最初に起こったのは、尾道のようである。当時の様子を尾道の一記録(『広島県史 近代現代資料編Ⅰ』)は次のように述べている。『(慶応3年11月29日夜大神宮御祓秋田屋利八方へ御ふりなされ、それにて昼夜当所所々方々へ伊勢両宮始奉り諸神社殊に関東方神社金毘羅宮御札御ふり成られ晦日夕かた諸人町中おどり始り賑々敷事に候』そして12月に入ると広島藩兵と長州藩兵とが尾道に駐屯し、市内の要所に侍・足軽を配して固めたため、『旁々おとり停止相成り候得とも裏小路ハおどり候事、御札も毎日御ふり之事』、凡町中五六百軒もふり候事」といった事態が続いている(『広島県史』近代現代資料編Ⅰ)。ついで竹原でも始まっている。竹原の様子は、12月8日『観音札白平宅に降る』を最初にして翌年正月はじめまで続いている(竹原市春風館頼永禧『丁卯日記』『戊辰日記』)。そのようすはほぼ次のようである。すなわち、諸種の神札や木慈像などが大家・中家に残らず一体ずつは降っている。これらが降臨すると老若とも大悦びでただちに大酒を飲む。大家へは傭人らが大勢入り込んでぶっつぶれるほど飲み食いし、若者は踊り狂って盆踊りよりもはなはだしい。昼夜とも酔っ払いと踊り狂いが町中にあふれている(竹原市春風館所蔵『頼永禧書状』)。ほぼ同じころ広島でも起こっている。また三原・忠海でも同様な騒ぎがあったようである。年が明けた慶応4年正月3日には備中井原で『ええじゃないか』踊りがあり、同7日には笠岡で天から生首が落ちてきたこと、同じころ倉敷でも騒動のあったことなどの風聞があった(竹原市春風館所蔵『頼平格書状』)。以上が、広島県地方において現在まで判明した『ええじゃないか』の大要である。それは、広島、竹原、忠海、三原、尾道、井原、笠岡、倉敷と山陽道、瀬戸内の町々で、多少前後の別はありながら慶応3年11月なかごろより翌年正月ごろまで続いたのである。そしてこのような『ええじゃないか』のニュースははるか芸北の加計町辺まで伝わり、『奇怪之至也』とされているのである(山県郡加計町加計慎太郎氏蔵『加計万乗』)。藩はこのような『ええじゃないか』に対し、『酒肴抔相賄』ことや、『酒興ニ乗途中踊賑』ことを禁じ、降り下った像・守などを役所に提出するよう命じている(御調郡久井町山口光栄氏蔵『慶応四年分触書』)。
羽仁五郎著『明治維新-現代日本の起源』(岩波新書)は、「明治維新」と「ええじゃないか」について次のように述べている。「もしもいわゆる志士たちの運動のほかに、国民民衆のすなわち当時の百姓町人のそれらがなかったならば、この慶応三年十二月九日も結局一つの単なるクウデタにおわったかもしれない。いな、事実、徳川封建政府に代わって薩長等の封建政府でも現出したにとどまったかもしれなかった。それをそうさせなかったのは、当時国民民衆すなわち百姓町人がすでに封建政治の基底をすっかり揺り動かしてしまっていたからであった。それにしても、この貴重なる慶応三年乃至明治元年にわが国民民衆百姓町人はあの『ええじゃないか』の全国的な舞踊におどりくるわされていた。それは久しかりし徳川幕府封建支配のついに倒壊するのを眼前に見たよろこびのおどりであったろうか。それともまた突如としてみちびかれた大衆混乱であったろうか。史上にかかる例がほかにもないわけではない。いづれにしても、慶応二年全国約四十件に及ぶ一揆やうちこわしのあったあと、この慶応三年から明治元年にかけて百姓町人わが国民大衆はただおどりくるっていただけで、彼等の思想は全く代表されなかったであろうか。いな、『萬機公論に決すべし』、また、『庶民に至るまで各其の志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す』の大旨は、実に国民の要望と無関係になされたる誓約ではなかった。」(P93~94)