久しぶりに広島駅前の福屋百貨店の10階にあるジュンク堂書店に立ち寄った。ここで東京大学出版会が発行した神田由築著『近世の芸能興行と地域社会』とい う本をみつけた。その中にかつてこの忠海再発見でも紹介した大三島の三島市と忠海について詳しく書かれているので、ここに紹介する。
三島太祝(おおほうり=大山祇神社の神事・社務全般を統括する職)は三島市の起源について、寛政元(1789)年3月に松山藩に出した書類の中で次のよう に述べている。貞享期(1684~1789)に松山藩主・松平定直が「市之節芝居興行仕、売女等入込」を免許し、それ以来安永4(1775)年まで社地に おいて「市芝居興行」がなされたという。安永4(1775)年に大幅な改革が行われ、それまでと市立の様相がかなり変わることになる。安永4(1775) 年までの三島市は、大三島を中心とする越智島中17カ村の氏社(三島宮)の「御神事賑」という性格をもっていた。4月15日から24日までの10日間が開 市期間という設定で、芝居興行が「三島惣島中」による「雇ひ」という形で行われていた。また芝居興行の開催を知らせるために周辺の各地に「立札」が立てら れた。立札は地理的にちょうど大三島を包囲するような町に立てられ、安芸領では竹原町、忠海町、三原城下、三津町、御手洗島、瀬戸田島、備後尾道町に立て られている。当初の市場所は三島宮社中で、芝居興行や諸商人による売買は社地の仮小屋で行われた。商人からは間口に応じて地床料を徴集し、10日間でおよ そ銀300目の上がりがあった。これは社中の利益となった。(神田由築『近世の芸能興行と地域社会』P146~153)
三島市に大きな変革をもたらしたのは、安永4(1775)年8月に松山城下の町人・薬屋五兵衛が藩に提出した改革案である。この改革のモデルは安芸国宮島 市で、三島市は宮島市と比較して海上交通の便、隣島との交流、市立のための空間の広さなど地理的条件において勝っているが、日数が少なく、「売女抔取扱之 場所」や「滞舟仕候所」が不整備であるために、自然と参詣も少なくなっている。そこで日数は35日とし、夏秋年2回開く。富籤興行をする。芝居に有名な役 者を呼び、浄瑠璃・歌舞伎を興行する。遊女の値段を市売並(通常の2倍)ではなく、平常どおりに押さえ運上銀を取り立てる。「小商人・飴売様之者」「店帳 場」からも運上を取る。鳥居前の砂川を付け替え、その川筋跡と付近の田地を埋めて市場所とする。そしてそこに店屋を設け、遊女屋・問屋類・芝居などを置く ようにする。等の改革を行った。
安永6(1777)年7月には「三島市春秋共揚屋株」が定められ、尾道の宝屋徳兵衛、竹原の柳屋儀兵衛、三原の木屋海老蔵、松山の刀屋文吉、御手洗の三浦屋武八、忠海の伊勢屋勝兵衛の6人に株札が渡された。(前掲書P154~164)
遊女は御手洗・忠海などから来ており、この点でも立札の立てられた地点と三島市とのつながりを確認することができる。しかも改革以前の遊女商売では「船住 居」という売買形態をとるなど、まさに海上交通で結ばれた三島市の性格をよく表している。市場商人=「小商人・飴売様之者」も竹原や忠海や今治、尾道、瀬 戸田など立札の設置地点から来ていると想定される。(前掲書P186)
この書物『近世の芸能興行と地域社会』には、しばしば御手洗と忠海の遊女のことが記述されており、その原典も紹介されている。
改革前は茶屋・置屋等の施設も整わず、「船住居」での商売が行われていたのである。「船住居」という商売形態は、海上交通で周辺地域と結ばれた三島市の地 理的特色を反映しており、非常に興味深い。同時期の広島藩の記録からも、「船住居」で客引きをする遊女の例がうかがえる。これは「船住居」で客引きをして いた御手洗・忠海の遊女が、尾道漁師町が整えられたので、こちらに「附船」するようになった。すなわち御手洗の遊女とともに忠海の遊女が福山藩領に出稼ぎ に行ったというものである。(『鶴皐公済美録』巻18・宝暦6(1756)年閏11月5日条=後藤陽一編『瀬戸内御手洗港の歴史』所収)(前掲書P47、 P163~164)