忠海から書店がなくなって久しい。1992年に株式会社メディアパルが発行した田中治男著『書店人国記-広島県・三重県』という本に、忠海駅前で書店を営んでいた草間書店について「花形サラリーマンから書店業へ」という見出しで書かれているので抜粋して紹介しよう。
「呉線は三原駅を出ると20分ほどで忠海駅に着く。忠海はいま歴とした市であり、昭和33年、隣接する竹原町と合併して、市制を敷き、竹原市忠海町となった。だがその繁華は三原市に及ばず、忠海駅に降り立って受ける印象は、ひいき目に見ても、田舎町のたたずまいをまぬがれない。
忠海が開けたのは、瀬戸内海に面した港を持っていたからで、その歴史は五百年を越え、瀬戸内水運の重要な寄港地として栄えていたのである。出船、入船の数が最盛時には一日九十隻に及び、忠海から積み出される物産は、遠く越後から佐渡島、そして九州全域に及んでいたという。
文明の進歩、交通網の激変が、忠海を今日の静かな街にしてしまったが、町内には往時をしのぶ名所旧蹟が今でも多く残されている。
昭和26年4月、忠海駅前に売場三坪の書店が誕生した。店名を草間書店といい、店主が一人のささやかな店であった。
草間光俊、それが店主の姓名で、この時42歳。仕事を始めるのに適当な年齢ではなかった。しかも素人で、前歴はサラリーマン。場所が田舎町と来ては、不利な条件ばかり。草間書店はまさに風にそよぐ灯火に似ていた。だがその悪条件が今になってみると店主、草間の心を引きしめ、店の繁栄につながって来たのだから、人生何が幸いするかわからない。 草間の経歴は変わっている。生まれたのが東京、千代田区麹町四番町。昭和七年法政大学を卒業し、当時花形だった同盟通信社に入社。社命で大陸に渡り、上海支局を振り出しに香港、広東の各支局に勤務し、昭和20年8月、満州の新京支局で総務関係の仕事をしていた。終戦の折、四十度を越す高熱を出し、壷蘆島の病院に入っていたため、内地に帰ったのが、昭和22年のはじめ。長い大陸生活の疲労をいやす目的で、草津温泉に行き、来し方行く末を考えていたところへ時事通信社から呼び出しが来た。さすがは通信社で、草間の内地帰還をいちはやくキャッチし、古巣に戻れと連絡して来たわけである。勿論、草間は喜んで時事通信社に入り、一カ年、東京本社に勤務。昭和23年、広島支局長の辞令を受け、広島市内の支局に赴任した。広島支局は焼け残った八丁堀の中国新聞社二階にあり、活発な取材戦を展開していた。
この年、縁あって忠海町の町会議長の草間弥生之助の養女知恵と結婚、草間家の人となる。(中略)草間家は忠海町に家があり、駅前に30坪ほどの土地を持っていた。町でも最高の立地だった。草間はここに眼をつけた。生来、本が好きで、本があれば機嫌が良い草間にとり、本に囲まれた仕事がしてみたいという願いが、いつも胸の底にあった。好機いたる。駅前で本を売ろう。こうして草間は、忠海駅前に、小さな書店を開業。商品は、東京にいた頃、神田界隈を歩きまわったので、取次店を知っており、そのうちの一店に現金を送って取引を開始した。サラリーマン時代、上司に気兼ねし、同僚との軋轢に苦しんだことがウソのように消えてなくなった。その代わり書店経営という苦しみが新しく現れた。貸していた店を戻して貰い、店を新築し、商品分野も、書籍、雑誌、文具と多彩に広げたのは良いが、後に待っていたのが代金の支払い。そこが商売人でなかった弱みで、経営のバランスが取れなくなり、支払いが渋滞、何回店じまいをしようと思ったかかしれない。(中略)店売りだけではラチがあかないので、数名の店員を採用、外商活動で、商品を売ることによって、草間書店の苦境を脱出。折もよく日本経済の上昇気流に乗り、来客数もふえ、店はようやく順調な経営軌道を走るようになった。それまで約十年、草間は商人としての修練を否応なく積まされたわけである。(中略)昭和50年、店舗を改築。三十坪の土地に総二階の建物をつくり、売場を二十坪に増床、忠海一番の書店が誕生した。忠海はいま人口八千人。草間書店はそれらの人々になくてはならない書店であり、人々との交流が深い。昭和63年、社長光俊は代表取締役の座を長男俊生に移譲、社長交代を発表した。」(P221~223)
忠海唯一の書店として駅前にあった草間書店も今はない。地域の文化の要となる書店は、このような創業者の努力と時代の変遷を経ていることを改めて知る文章なのでここに紹介した。