阪田泰正氏の論文に「早田原村塩田と田窪藤平」があるので紹介しよう。
明治時代になると外国から塩が輸入されるようになり製塩業界は苦境に陥った。このため早田原村では塩田改良の指導者として田窪藤平を招いている。
このことに関し、田窪藤平履歴書には「明治16年安芸国賀茂郡早田原村原田庄兵衛外数名の聘により、同地塩田を視察したるに、年々入替を使用すること多量にすぎ、之に伴う操業の不注意より張り土を厚くして地場の乾燥及湿潤に支障ありて不利益なるが故に、上土を削り土を薄くしその他を多少修繕をなしたり」とある。
田窪藤平は文政11年(1828年)6月21日、伊予国越智郡波止浜村で、田窪武平(母ヒ子)の子として生まれた。田窪家は先祖代々商業を営み、武平の代になって商業のかたわら塩業を営んでいたので、藤平は天保12年(1841)より嘉永3年(1850)まで父武平に従って波止浜塩業に従事す。嘉永4年(1851)感ずる所があって、伊予国及讃岐・兵庫・備前・備後・安芸地方の塩田を巡視し、地質気候の異なるに随い作業を異にせなければならぬ事を考察し翌5年帰村す。同6年より安政3年(1856)に至る4カ年間、伊予国越智郡盛口村大字井口浜塩田小作人林屋庄次郎に支配大工として雇傭せられ、在務中左の如き試験を行い、その成績良好であったので爾来この方法を続行した。
(左の如き如き試験を要約すると、イ、石炭量を減少せんがため、竈の内部に多少の改良を、「タイコ」縮少し土居の深さを下げ、内部を拡げて試験した結果、一昼夜で九振りの減少をなした。ロ、大坪の構造は内部を粘土で築調するもので、その方法を考究し、粘土の厚さを改善し損所を生じることを極めて少なくし、稀に損所を生じることがあっても容易に修繕することが出来た。)
安政4年より同6年まで越智郡岡山村大字口惣の塩田を小作し、万延元年(1860)より明治13年(1880)まで21年間越智郡宗方塩田を小作し、砂入替の改良を行い、今までは毎年の収塩高僅かに2700俵であったのを8000俵の収塩を得るに至った。
明治14年(1881)豊田郡東野村垂水浜を小作、同15年より甥の田窪九助に之を譲り同31年に至る17年間、豊田郡忠海町西徳浜を小作す。当時煙筒の構造不完全なるため、石炭の消費高が割合に多いので在来の煙導を一間延長し、その他を適寸に改良し、一昼夜で二振りの減少を得た。
同18年、賀茂郡竹原町頼俊直外数名の聘により同地塩田を視察し、翌19年より同21年まで、頼俊直所有塩田の内、三番・三六番の二戸を試験田としてその監督を嘱託せられ、19年の冬から三番浜地場の修繕をなし、地場の作業を始め、竈の構造、大坪の改築等細大となく改良をなす。
同18年豊田郡瀬戸田町堀内調右衛門外数名の聘により同地塩田及鷺島塩田を視察し、地場の修繕及大坪の構造方を指揮す。
同19年御調郡向島西村豊田維徳外数名の聘により富浜塩田を視察し、塩業の全体について講演をなす。同20年御調郡三原町楢崎仲兵衛の聘により同地塩田を視察し、塩業の方法を示授す。
同22年沼隈郡松永町塩業者の聘により同地塩田を視察し、本田一支田二戸を試験田としてこれが監督を嘱託せられ二ケ年間従事す。
同23年豊田郡鷺浦村山下精八の聘により同地塩田を視察し、塩田築調の方法を講話。同26年大阪市浅野某の聘により沼隈郡松永町機織新開塩田の築調の指揮をなし、同27年7月沼隈郡松永町慶応浜高潮のため堤防破壊し、これが復旧工事につき持ち主頼俊直の請により工事の監督をなす。同年忠海町加登勘吉の聘により早田原村塩田の修繕の監督す。 同30年11月鹿児島知事加納久宣の要請により同県串木野村に試験塩田を築調。
同33年農商務省塩業調査所の要請に応じ千葉県津田沼試験場へ出張し、地場の築調及び大坪の構造方等諮問に応答し、所見を陳情す。
明治34年3月13日、塩業調査所の嘱託となる。同年、豊田郡南生口村宮原塩田を小作し、同35年、忠海町西宗元次郎の嘱託により、伊予国越智郡岡山村字口惣塩田改築の監督、同39年、竹原製塩合名会社の要請により、同40年まで2年間同地の塩業を監督す。
同41年、賀茂郡仁方村村長の要請により同地の塩田を視察、同年周防国佐波郡三田尻塩田大会所の要請により同地の塩田を視察し、同42年より試験塩田を設置し地場の改築、その作業の改良等統べて監督を嘱託せらる。同年同国吉敷郡秋穂村、田中順吉・藤田始之助外数名の者の要請により同地塩田を視察し、塩業改良方法を指授す。
大正7年(1918)4月2日没す。享年91歳。墓は忠海町勝運寺にある。法名、顕徳院釈国光増輝居士。
昭和31年(1956)10月16日、忠海八幡神社境内の郷賢祠に祭祀さる。
これらの事績こそ田窪藤平が瀬戸内塩業発展の父といわれる由縁である。