98しまなみシンポジウムを収録した中国新聞社発刊の『瀬戸内の海人たちⅡ』に、歴史学者の網野善彦氏の「海の領主について」という基調報告が掲載されて いる。網野氏は日本の中世における海人の役割を重視した史観の確立を主張しているが、この文章のなかに忠海(浦郷)が登場するので、ここに転載する。
「少し極端に言いますと、私は近世以前の日本の社会においては、狭い意味の農業、田畠の耕作に従事していた農民は、決して人口の圧倒的多数を占めていたわ けではなく、山・野原・川・海を“生業の舞台”としていた人たち、あるいは商工業者や金融業者、運輸業者、芸能人などの人々の割合の方が、全体として農民 を上回っていたのではないかと考えています。その中でも海を舞台にして生きてきた“海の民”、漁撈・製塩・廻船・交易を生業にしていた海民の割合は、われ われがこれまで常識的に考えてきた比重よりも当時の社会の中で、はるかに大きな意味を持っていたと思います。」(『瀬戸内の海人たちⅡ』P71)
「10世紀以後の動向の中で、貴族や寺社、やがて台頭してくる武家、さらに鎌倉時代に入ってからの地頭や御家人は、その支配を維持していくためには、どう しても“海の道”を視野に入れなくてはなりませんでした。‥‥‥特に、港(湊)や渡、津、泊、あるいは浦や浜といわれる所領を、どうしても掌握しておく必 要があり、あるいは船を動かしている廻船人を支配することを、貴族や寺社、武家などもみな、それぞれの立場から追求していたと考えなくてはならないと思い ます。瀬戸内海に関しては、鎌倉時代から伊予国(愛媛県)を知行国として長い間、支配していた西園寺家という貴族がおりました。この家は、武家と公家、幕 府と朝廷との間の“外交”の上で、朝廷側の鎌倉幕府に対する窓口となった『関東申次』という立場にありました。この西園寺家が、瀬戸内海の交通に非常に深 い関心を寄せていたと考えられます。‥‥‥『予章記』などにも出てきますが、能地、忠海など“海の民”の根拠地のある浦郷を含む安芸国沼田荘も西園寺家の 所領になっており、同家は瀬戸内海沿岸に多くの荘園を押さえています。」(前掲書P73~75)
「船を繋留する津や泊を確保するために、海の領主たちはさまざまな努力を払っています。例えば沼田荘には、地頭として小早川氏が入ってきます。もともと東 国の領主だった小早川氏が、海の領主になっていくきっかけは、沼田荘内の浦郷という能地などの海民の根拠地になっている地域を押さえたことにあったと思い ます。海民を支配するためには、そうした海民の根拠地になりうる津、泊、浦を押さえることが、どうしても必要だったのです。」(前掲書P80~81)
この網野氏の提起によると、中世の海の領主にとって“海の民”の根拠地である浦郷がいかに重要であったかがわかる。またこの同じシンポジウムの中で、山内譲氏は高崎についても触れている。
「安芸国の竹原は、そこ自体も優れた港町ですが、その近郊に高崎という所があります。中世には、こちらの方が港町として発達していたようです。この高崎 が、実は造船の基地でした。室町時代の遣明船貿易家として知られる楠葉西忍が、遣明船派遣の準備のために高崎へ来て、造船の手配をしたことが分かっていま す。また、高崎の領主らしい高崎氏は、小早川氏に対して銭を納めるべきところを、代わりに帆船を1艘仕立てたりしています。」(前掲書P150)
小早川氏はこうした要所に庶子を配置した。浦郷の領主である浦氏も高崎の領主である高崎氏、小泉の領主である小泉氏もいずれも小早川氏の庶子である。