倉本澄さんが収集した忠海のむかし話のなかから小泉峠と滝の観音にまつわる話を転載しましょう。
《蝋燭売りと狐》
この話は、忠海から伊豫国の内子へ見習いに行っていた富永十郎という人が内子の蝋燭屋の帳面に書き残していたというものです。
ある時、日が暮れて、蝋燭売りが「小泉峠を通るのは真夜中になるだろう」と心配しながら歩いていると、一人の若者がそばにやってきて、「もしもしおじさ ん、これから忠海に帰るのですか。」と聞きますので、「そうなんじゃ」と言いますと、「丁度いい。私も帰るので一緒に帰りましょう。」と二人は連れだって 歩きだしました。少し歩きだした頃から、男は話すごとに、口の回りに唾を飛ばしますので、おかしいと思いながら帰ってきました。
家に着いて、荷物を下ろしながら、いやに軽くなったなと思って風呂敷をときますと、蝋燭は一本もありません。
「そうだ。峠の狐にやられた。しまったことをした。」と嘆いたそうです。
倉本澄さんの家も、家族が10人もいましたので、米の買い出しに本郷方面に行きました。昼間は警察の取り締まりが厳しいので、誰でも夜が来るのを待って 帰ってくるのです。小泉峠にさしかかったのは夜の10時頃でした。丁度小雨に逢いました。すると青い小さな火がぽつりぽつりと見えました。「ああこれが狐 の涎か」と思いましたが、傘の破れるのもわからず、走って帰りました。
「狐の涎は寒の間は光る」と祖母から聞いていましたが、恐ろしいのが先にきて、震え上がりました。 幼い時からよく「狐の万灯が走るのは美しいものだ」とか「狐の千匹連れ」というのは聞かされていましたが、実際に見たら恐ろしいものでした。
《滝の観音様と饅頭》
昔、浅野三次藩が忠海村に奉行所を作ったとき、桶職の棟梁として三次から職人を連れてきました。彼は大変律義な性格の人でした。
ところが、ある日突然、足が立たなくなりました。そこで小泉と忠海の境にある滝の観音様に「どうか元のようにご奉公ができますように」と、三、七、二十一日の願をかけました。
願明けの日です。何と歩けるではありませんか。「観音様のおかげです」と感謝し、何か村の人達の暖かい気持ちに報いることがしたいと思い、酒の麹で造った饅頭を思いたちました。これが忠海名物の「三次の酒饅頭」のおこりだそうです。
倉本澄さんによると、先日も明治時代に忠海の軍隊に勤務していた人が「まだ忠海饅頭ありますかいのお」とたずねたそうです。私たちにとっても酒の麹のきいた「三次の酒饅頭」のなつかしい味が忘れられません。