山内譲著『中世瀬戸内海の旅人たち』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)という本を手に入れた。この本は中世に瀬戸内海を往来した旅人たちの記録をもとに構成されている。この本の中に、中世の港としてたびたび忠海と高崎が登場するので紹介しよう。
最初に高倉上皇が治承4年(1180年)3月に厳島参詣した際、同行した土御門道親が残した紀行文『高倉院厳島御幸記』である。
高倉院の一行は3月19日の早朝、まだ暗いうちに京都を出発し、江口から神崎川の河口の「川しりのてら江」(川尻寺江=尼崎市今福付近)に着いた。翌20日は、輿と徒歩で陸路を行くことになり、西宮、鳴尾、都賀、生田の森を過ぎて、平清盛の待ち受ける福原に到着した。翌21日も、院の一行は輿と徒歩で出発し、清盛は「唐船」に乗って、沖からこれに同行した。和田岬、須磨の浦を経て、播磨国に入り「いなみの」、山田、明石などを通過して、その夜は高砂の泊に停泊したものと思われる。翌日からは、船の旅である。一行の乗船した船がどのようなものかはわからないが、乗船にあたって、「御舟のあし深くて湊へかか」るゆえ「はしふね」三艘を設けて輿をかつぎ込んだ、とあること、操船のために乗り込んだ「舟子かんどり」が20人であることなどから判断して、かなりの大型船であることが想像される。
22日は、播磨国の室の泊に停泊した。室は、播磨国の東部揖保郡の南部から播磨灘に向かって突出した小さな半島の一角に開かれた港で、三方を山に囲まれ、わずかに西側のみが外に向かって開口している。池のような入江に開かれた港である。翌23日は、有明の月が淡路島にかかるのを眺めながら出港し、順調な旅を続けて、備前国の児島の泊に着いた。24日には備中国「せみと」に停泊し、25日には、安芸国馬島(安浦町)に停泊、26日午の刻(正午)に厳島についた。厳島では平氏一族をあげての歓迎が待ち受けていたことはいうまでもない。19日に京を出発し、22日には高砂の泊で船に乗り替えて、つごう8日間の旅であった。(『中世瀬戸内海の旅人たち』P9~25「高倉院の厳島参詣」)
高倉院の一行が厳島参詣をとげた治承4年から200年ほどのちにあたる康応元年(1389年)に、室町将軍足利義満が厳島参詣の旅を行った。この厳島参詣の旅には、斯波義種・細川頼元・畠山基国・山名満幸、今川了俊ら、幕府を支える有力守護が随行しているが、このうち文人としても名を知られた今川了俊が、『鹿苑院殿厳島詣記』と題する旅の記録を残している。また、これとは別に、素性不明な元綱なる人物の手になる『鹿苑院西国下向記』なる記録も残されている。同じ旅についての記録であるが、前者は寄港地の地名や景色について詳細に記し、後者は各地の守護たちの接待・饗応ぶりや進物内容等について詳細に記すという特色が見られる。この両書によりながら足利義満一行の旅の様子を、高倉院一行のそれと比較しつつ見ていくことにしよう。
一行は3月4日の朝のまだ暗いうちに京都を出発し、その日の午の刻(正午)に兵庫についた。翌5日の早朝に乗船して兵庫を出港した。一行は、細川頼之が準備した百余艘の船を連ねた大船団であった。『下向記』は「御座船には二階をかまへ、まんのまくをひきしかば、幔は天にひるがえり、幕は船に飾り」と記している。幔幕を張り巡らせた二階建の屋形を備えた豪華船らしいこと以外に詳細は不明である……。
兵庫出港後のコースは、高倉院の場合とほとんど同じであるが、高倉院が室の泊に停泊したのに対して、義満の一行は「たて崎」(岡山県邑久町長島東端の楯崎か)の沖に停泊した。本来は牛窓に停泊する予定が、風雨のために急遽長島の島陰に船を寄せることになったものと思われる。高倉院の一行の一日の行程が高砂-室の泊だったのに対して、義満の場合は兵庫-楯崎で、一日の航続距離が倍近くのびているのが注目される。
高倉院の一行は、室の泊からそのまま山陽沿岸を進んだが、義満の一行は翌6日には備讃瀬戸を斜めに横切って四国の宇多津に向かった。途中、牛窓・「ま井のす」・大槌島・小槌島などの景色を楽しみ、潮流の激しい槌戸瀬戸を経て亥の刻(午後10時)過ぎに宇多津に入港した。
義満の一行は、新たに細川頼之を伴に加えて宇多津を出港した。8日は、風雨が激しくて激しくて急遽塩飽諸島西端の佐柳島(香川県多度津町)に停泊し、9日には尾道、糸崎等を経て高崎(広島県竹原市)に停泊したというから、再び山陽沿岸コースに戻ったことがわかる。翌10日は、音戸の瀬戸を経て厳島に着いた。京都を出て以来7日間の旅であったが、そのうちの一日は宇多津に滞在していたから、実質の所要日数は6日間ということになる。高倉院の所要日数が8日であったことと比べると2日の短縮ということになる。
翌11日には、厳島神社に参詣したが、ゆっくりする間もなく乗船して、その日は神代(山口県大畠町)の沖まで足を伸ばした。翌日は周防の鳴門=大畠瀬戸をぬけ、竈戸関(上関町)や室積(光市)を経由して下松に停泊した。ここで周防の守護大内義弘があいさつに伺候した。さらに翌日はわずかばかり西に進んで「この国の国府の南、たかはまといふ浦ばたの、みたじりといふ松原」に着き、大内義弘が設けた宿所に入った。
三田尻の高洲の浜で大内義弘の歓待を受けた義満の一行は、翌14日に三田尻を出港してさらに西下を続けたが、西風にあって向島へ引き返した。翌15日にも再び大風にあい、出港後5里ばかり進んだ「赤崎という浦から引き返して田島に停泊した。結局、義満の一行は強い西風のために宇部岬、本山岬の沖を越えることができなかった。評議の結果、ここから引き返すことに一決し、いったん三田尻の高洲に戻ったのち、18日に帰路についた。復路のコースは往路とほとんど同じであるが、一つだけ大きく相違するところは、竈戸関から広島湾のほうへまわらないで、周防大島(屋代島)の南岸を通り防予諸島をぬけて直接蒲刈島など芸予諸島に向かった点である。念のために義満一行のコースをたどっておくと、3月18日に竈戸関で大内氏や伊予の河野氏の拝謁を受けたあと、19日にそこを出発し、屋代島(周防大島)、南岸の横見(山口県大島町)、出井(同)、秋(橘町)、船越(東和町)などの沖を東進した。防予諸島をぬける25里を漕ぎ進んで安芸国蒲刈島近くの黒島沖に停泊した。このあと一行は安芸国忠海、備後国尾道、讃岐国宇多津、備前国牛窓と泊を重ね、播磨国室の泊で上陸して3月26日に京都に帰着した。(『中世瀬戸内海の旅人たち』P26~45「足利義満の西国遊覧」)
この時の忠海への寄港を示す『鹿苑院殿厳島詣記』の一文が、この『忠海再発見1忠海の地名』でも紹介した「御舟を洲に押掛てゆかざりければ、はし舟をめしてただの海の浦といふ所のいそぎはに、あしふける小屋にやどらせ給ひける程に、しほ満来りて御舟おきぬとてとてまゐれり、又めしてこがせ給」(平凡社『広島県の地名』P494)である。また『忠海案内』には「足利義満の厳島参詣の時、乗船坐洲して動かざりしかば、はし船を乗り、忠海の浦上陸し、葦の小屋に一夜を明かし次の歌を残せり。『うきねする沖津とまりをいそげとやあけぬ夜潮に船のおくらん』(足利義満厳島詣記)」と紹介されている。